次に七海がその店を訪れたのは、一週間後の水曜日だった。
今度は終電を逃したわけではなかった。定時で上がれた日、なぜか家に真っ直ぐ帰る気になれず、気づけば足があの路地へ向かっていた。
階段を降りて扉を押すと、また鈴が鳴った。カウンターの男は、前と同じ場所に、同じ姿勢で座っていた。
「終電、まだあるでしょう」
「はい」と七海は答えた。「でも、来ちゃいました」
男は何も言わず、棚から一枚のレコードを抜き取った。ジャケットは色あせて、タイトルは読めない。慣れた手つきでターンテーブルに乗せ、そっと針を落とす。
プツ、という小さな音のあと、ほんの一瞬の沈黙。それから、女性の歌声が流れ出した。
「あの、針を落とす前の……あの音」
「ノイズが嫌いな人もいる」男は言った。「でも俺は、あの一瞬が好きなんだ。何が始まるかわからない、あの間が」
七海はうなずいた。CDやスマホの音楽には、あの「間」がない。ボタンを押せば、寸分の狂いもなく音が始まる。
「わたし、名前、七海っていいます」
「聞いてない」
「聞いてほしくて言いました」
男は少し黙って、それから小さく息を吐いた。
「冬野」
「冬野さん」
名前を口にすると、他人だった距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。
その夜、七海は三枚のレコードを聴いた。どれも知らない曲だった。けれど、知らないからこそ、素直に音の中に沈んでいけた。
帰り際、冬野がぽつりと言った。
「知らない曲を、知らないまま好きになれる人は、少ない」
それが褒め言葉なのかどうか、七海にはわからなかった。
でも、扉を閉めて階段を上がるとき、心臓が少しだけ速く鳴っていた。針が落ちる前の、あの一瞬みたいに。