第2話: 針が落ちる音

次に七海がその店を訪れたのは、一週間後の水曜日だった。

今度は終電を逃したわけではなかった。定時で上がれた日、なぜか家に真っ直ぐ帰る気になれず、気づけば足があの路地へ向かっていた。

階段を降りて扉を押すと、また鈴が鳴った。カウンターの男は、前と同じ場所に、同じ姿勢で座っていた。

「終電、まだあるでしょう」

「はい」と七海は答えた。「でも、来ちゃいました」

男は何も言わず、棚から一枚のレコードを抜き取った。ジャケットは色あせて、タイトルは読めない。慣れた手つきでターンテーブルに乗せ、そっと針を落とす。

プツ、という小さな音のあと、ほんの一瞬の沈黙。それから、女性の歌声が流れ出した。

「あの、針を落とす前の……あの音」

「ノイズが嫌いな人もいる」男は言った。「でも俺は、あの一瞬が好きなんだ。何が始まるかわからない、あの間が」

七海はうなずいた。CDやスマホの音楽には、あの「間」がない。ボタンを押せば、寸分の狂いもなく音が始まる。

「わたし、名前、七海っていいます」

「聞いてない」

「聞いてほしくて言いました」

男は少し黙って、それから小さく息を吐いた。

「冬野」

「冬野さん」

名前を口にすると、他人だった距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。

その夜、七海は三枚のレコードを聴いた。どれも知らない曲だった。けれど、知らないからこそ、素直に音の中に沈んでいけた。

帰り際、冬野がぽつりと言った。

「知らない曲を、知らないまま好きになれる人は、少ない」

それが褒め言葉なのかどうか、七海にはわからなかった。

でも、扉を閉めて階段を上がるとき、心臓が少しだけ速く鳴っていた。針が落ちる前の、あの一瞬みたいに。

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