働きはじめて三日目の夕暮れ、最初のお客さんが来た。
疲れた顔をした、スーツ姿の中年男性だった。彼は店に入るなり、居心地悪そうにあたりを見回した。
「あの……ここに、来れば、何か取り戻せるって、夢で見た気がして。ばかげてますよね」
店主のうめさん——それが店主の名前だった——は、穏やかに微笑んだ。「何をなくしたか、心当たりはあるかい」
男性は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「……笑い方が、わからなくなったんです。仕事のことで、ずっと張り詰めていて。気づいたら、家族の前でも、笑えなくなっていた。娘に『パパ、こわい顔』って言われて」
うめさんは私に目配せした。私は棚を探す。たくさんの木箱の中から、ひとつの札に目が留まった。《この人の、二十五歳の笑い声》。不思議と、それが彼のものだとわかった。
箱を開けると、中には何も入っていない。けれど、ふわりと、あたたかな空気があふれ出した。にぎやかな笑い声が、一瞬、店に満ちた気がした。
男性は、はっと目を見開いた。「これ……昔、友達と、くだらないことで腹を抱えて笑ってた……あの頃の……」
「なくしたわけじゃない。ただ、忙しさに埋もれて、置き忘れていただけだよ」うめさんは言った。「持って帰りな。あんたのものだ」
男性の目に、じわりと涙がにじんだ。彼は箱を胸に抱くようにして、深く頭を下げた。
「今夜、帰ったら……娘と、くだらない話でも、してみます」
店を出ていく彼の背中は、来たときより少し軽く見えた。
「あの人、思い出せるかな。笑い方」私がつぶやくと、うめさんは笑った。
「大丈夫。人はね、忘れても、思い出す力があるんだ。私たちは、そのきっかけを、ちょっと手渡すだけさ」