次に屋上へ上がったのは、三日後の夜だった。
正直に言えば、彼がいるといい、と思っていた。エレベーターのボタンを押しながら、期待している自分が少し気恥ずかしかった。
屋上のドアを開けると、彼はまた同じ場所にいた。今度は先に気づいて、片手を上げてくれる。
「こんばんは。また眠れませんか」
「はい。あなたも、また星ですか」
「僕はこれが仕事みたいなものなので」
聞けば、彼は望遠鏡や天文機材を扱う小さな会社で働いているのだという。新製品のテスト観測を兼ねて、天気のいい夜はこうして空を見上げているらしい。
「じゃあ、これはお仕事の邪魔をしてることになりますね」
「いえ。誰かに見せると、レンズの調子より先に自分の機嫌がわかるんです。今夜はいい調子です」
そう言って彼は、また接眼レンズを譲ってくれた。今夜は月のクレーターがよく見えた。白い砂漠に、無数の丸い傷が刻まれている。誰も足を踏み入れないのに、こんなにはっきりと存在している。それが不思議で、少し切なかった。
「名前、聞いてもいいですか」
私がそう言うと、彼は少しだけ黙った。
「……やめておきませんか。名前を知ると、そのうち生活の話になる。仕事とか、休みとか、面倒なこととか」
「星の話だけしていたい、ってことですか」
「はい。ここだけの、夜の人でいたいんです」
変わった人だ、と思った。けれど、その気持ちは少しわかる気もした。名前も肩書きもない、ただ星を見上げるだけの時間。それは私にとっても、久しぶりに息のできる場所だった。
「わかりました。じゃあ、私はあなたを『土星さん』って呼びます」
「ずいぶん重たい名前ですね」
「輪っかがきれいだったので」
彼が声を出して笑った。その笑い方を、私は少しだけ好きだと思ってしまった。名前も知らないのに。