第2話: いちばん深い水槽

藍は、私を館の奥へ案内してくれた。

水槽は、手前ほど明るく、奥へ進むほど暗く、深くなっていく。

「手前の水槽は、つい最近、飲み込まれた言葉です」と藍は歩きながら説明した。「まだ元気に泳いでいるでしょう。でも、奥へ行くほど、古い言葉になる。何年も、何十年も前に言えなかった言葉たちです」

いちばん奥の水槽は、ほとんど真っ暗だった。目を凝らすと、深い底のほうに、弱々しく光る言葉が、ゆっくりと沈むように漂っていた。

「ここにいるのは、もう主が思い出せなくなった言葉です。言いたかったことすら忘れてしまった。そうなると、言葉はどんどん深く沈んで、やがて光を失います」
「光を失うと、どうなるんですか」
「消えます。二度と、その人のもとには戻れない」

藍の声は静かだった。

「だから僕は、光があるうちに、言葉を主のもとへ返したいんです。言えなかった言葉を、もう一度、言えるように」

私は、いちばん奥の暗い水槽を見つめた。あんなに深くまで沈んでしまった言葉たちは、いったい誰のものだったのだろう。どんな思いを、飲み込んでしまったのだろう。

「あなたの言葉は」と藍が言った。「まだ、手前のほうにいます。良かった。まだ、間に合う」

彼は、手前の明るい水槽を指さした。

そこに、私の言葉があるというのか。私は水槽を覗き込んだ。たくさんの言葉が泳ぐ中で、藍がそっと指を伸ばした。

一匹の――いや、一つの言葉が、彼の指先に、すっと寄ってきた。まるで、飼い主を見つけた小魚のように。

それは、「ありがとう」という、四文字だった。

「これ、あなたのですね」と藍は言った。「誰に言えなかった、ありがとうですか」

私の胸が、大きく震えた。心当たりが、あった。もう、伝えられないと思っていた、たった一言。

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