藍は、私を館の奥へ案内してくれた。
水槽は、手前ほど明るく、奥へ進むほど暗く、深くなっていく。
「手前の水槽は、つい最近、飲み込まれた言葉です」と藍は歩きながら説明した。「まだ元気に泳いでいるでしょう。でも、奥へ行くほど、古い言葉になる。何年も、何十年も前に言えなかった言葉たちです」
いちばん奥の水槽は、ほとんど真っ暗だった。目を凝らすと、深い底のほうに、弱々しく光る言葉が、ゆっくりと沈むように漂っていた。
「ここにいるのは、もう主が思い出せなくなった言葉です。言いたかったことすら忘れてしまった。そうなると、言葉はどんどん深く沈んで、やがて光を失います」
「光を失うと、どうなるんですか」
「消えます。二度と、その人のもとには戻れない」
藍の声は静かだった。
「だから僕は、光があるうちに、言葉を主のもとへ返したいんです。言えなかった言葉を、もう一度、言えるように」
私は、いちばん奥の暗い水槽を見つめた。あんなに深くまで沈んでしまった言葉たちは、いったい誰のものだったのだろう。どんな思いを、飲み込んでしまったのだろう。
「あなたの言葉は」と藍が言った。「まだ、手前のほうにいます。良かった。まだ、間に合う」
彼は、手前の明るい水槽を指さした。
そこに、私の言葉があるというのか。私は水槽を覗き込んだ。たくさんの言葉が泳ぐ中で、藍がそっと指を伸ばした。
一匹の――いや、一つの言葉が、彼の指先に、すっと寄ってきた。まるで、飼い主を見つけた小魚のように。
それは、「ありがとう」という、四文字だった。
「これ、あなたのですね」と藍は言った。「誰に言えなかった、ありがとうですか」
私の胸が、大きく震えた。心当たりが、あった。もう、伝えられないと思っていた、たった一言。