第10話: 十二階建てのビル

田口は、それから少しずつ回復した。あの夜を境に、悪夢を見なくなったという。医者も原因のわからなかった衰弱は、嘘のように治まった。あいつは会社を辞め、実家のある田舎へ帰っていった。「もう、あのビルには近づかない」と言い残して。

管理人は、その年の春に定年を迎え、ビルを去った。最後に会ったとき、彼は穏やかな顔をしていた。

「長いこと、弟を出してやりたいと思ってた。だが、たぶん、それはできなかった。あそこにいる三人は、もう、生きてた頃の人間じゃない。ただ、寂しい何かに、なっちまってる」

「じゃあ、どうして扉を開けたんですか」
「あんたが、仲間を助けようとしてたからだ。一人でも、あっち側から取り返せるなら。それで、十分だと思えた」

彼はそう言って、静かに笑った。

俺は今も、同じ会社に勤めている。相変わらず残業は多い。だが、深夜にあのエレベーターには、決して乗らない。階段で、九階から一階まで下りる。どんなに疲れていても。

先日、新しく入った後輩が、不思議そうに言った。
「先輩、このエレベーターの操作盤、13のボタンありませんよね? なんか夜になると見える気がするんですけど、気のせいですかね」

俺は、後輩の顔をじっと見た。それから、静かに言った。

「気のせいだ。このビルは、十二階建てだよ」

後輩は「ですよね」と笑った。俺は笑わなかった。

——決して、押すな。触れるな。夜のあのボタンは、今も、寂しい誰かが、仲間を待っている。十二階建てのビルの、存在しない十三階で。

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