越してきたのは、川沿いに立つ古いマンションの七階だった。家賃が安いのには理由があって、目の前を流れる運河のせいで湿気がひどく、夏場は虫が出る。それでも私が決めたのは、ベランダから見える夜景がきれいだったからだ。
私は病院の夜勤看護師で、帰宅するのはいつも明け方近い。日中に眠り、日が沈むころに起きる。世界が寝静まってから動きだす生活は、もう三年になる。
その夜も、勤務を終えて缶ビールを片手にベランダへ出た。運河の向こう岸には、古びたオフィスビルが一棟だけ立っている。真っ暗なビルの、三階のいちばん端。その一室にだけ、ぽつんと灯りがともっていた。
午前二時。こんな時間に、あの部屋にも誰かいるのだ。それだけのことなのに、私はなぜか胸の奥が少しあたたかくなった。世界が眠っている時間に、自分と同じように起きている誰か。顔も名前も知らない、対岸のあかり。
次の日も、その次の日も、灯りはともっていた。私が帰宅する午前二時ごろに点き、朝方には消えている。私の生活とまるで同じリズムだった。
ある明け方、私はふと思いついて、部屋の電気を二回、消して点けた。合図のつもりだった。届くはずもない、ただの気まぐれ。
ビールの缶を握ったまま、対岸を見つめる。
数秒後——向こうの灯りが、二回、点滅した。
心臓がとん、と跳ねた。偶然かもしれない。でも、たしかにあの灯りは、私に応えた。私は思わず手すりを握りしめ、暗い運河の水面に映る二つの光を、いつまでも見ていた。