第1話 赤いボールペンの字
図書館の本に書き込みをする人間が、私は好きじゃなかった。
公共のものに、自分の痕跡を残していくのは、マナー違反だと思っていた。
高校の図書委員として、そうした落書きや書き込みを見つけるたびに、心がざわざわした。
誰のものでもない本を傷つけるのは、図書館全体を傷つけることと同じだと感じていたから。
でもその日、返却された文庫本のページをめくったとき、余白にこう書いてあった。
『この主人公、なんで謝れないんだろう。謝れば全部解決するのに』
赤いボールペン、細い字。
思わず次のページをめくった。
また余白があった。
『あ、謝った。でも遅すぎる気がする』
その一言で、書き込んだ人間が、ちゃんとこの物語に怒ったり安心したりしながら読んでいたことが伝わってきた。
まるで私に語りかけてくるような、そんな感覚さえ覚えた。
もう一度ページをめくると、別の箇所にも赤い字があった。
『主人公の気持ちもわかるけど、相手の気持ちはもっと複雑なんだと思う』
書き込みは一冊を通じて散在していた。
章が進むごとに、丁寧に、でも自分の心の声を素直に記している。
まるで本の著者と、この見知らぬ読者が対話しているみたいに。
私は図書委員として、このページを報告して消してもらうべきだった。
ルールはルール。
それがこの図書館での暗黙の了解だ。
でも、そうすることが、この人の読書の痕跡を完全に消すことになるという事実が、胸に引っかかった。
誰かが一生懸命に読んで、感じたことを書き残した、その営みを。
しばらく本を握ったまま、私は動けなかった。
図書館の照明は相変わらず静かに本棚を照らしている。
奥のカウンターでは先生が返却手続きをしている。
世界は何も変わっていないのに、自分の中だけが揺らいでいる感覚。
できなかった。
報告することが、できなかった。
代わりに、黒いシャープペンを握った。
その人の赤い字のすぐ隣に、小さく、丁寧に書いた。
『遅すぎるか、ちょうどいいか、読む人によって違うと思います』
ペン先が本に触れるたびに、自分は何をしているのかという不安と、同時に何か大事なものを守っているのではないかという微かな確信が、ないまぜになっていた。
本を棚に戻しながら、少し心臓が跳ねていた。
その人が、もしこの本をまた借りたら。
もし私の返信を見つけたら。
そこまで考えて、自分が何を望んでいるのか、ようやく気づいた。
もう一度、対話が続くことを。
──(第2話へつづく)