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第8話 引越しを考える
就活が終わって内定が出た。思わぬ企業からのオファーで、正直なところ迷いに迷った三か月だった。だが最終的には、その会社で働くことを決めた。ただし、一つの問題があった。会社は少し遠い。いや、「少し」ではなく、かなり遠かった。駅から三十分の実家からだと、毎日往復で二時間以上。それは流石に現実的ではない。
通勤のことを考えると、引越しを考えた方がいいかもしれなかった。そう思ったのは、内定通知を受け取った翌々日のことだ。親にも報告しなければならないし、人生の大きな決断だった。だが同時に、もう一つの懸念があった。この部屋には田中がいるのだ。
あの男と一緒に住み始めてから、もう三年が経つ。最初は本当に歯が立たなかった。深夜の奇想天外なルール作成、突然の部屋の模様替え、謎の食事の同期化。全てが理不尽で、全てが予測不可能だった。だけど今は、その支離滅裂さが心地よくなっていた。毎晩の訳の分からない攻防戦も、今では良い気分転換になっている。そんな田中との時間を失うことは、単純に嫌だった。
田中には言っていなかった。就職が決まったこと、そして引越しの可能性を思い始めたことを。それは決定事項ではなく、単なる検討段階だったからだ。だから、物件サイトを眺めるのは、寝る前のこっそりとした時間に限定していた。パソコンの画面を薄暗い光が照らす中、会社の近くのアパートを見繕ったり、賃料と通勤時間のバランスを考えたりしていた。
そのとき田中が部屋に入ってきた。いつもの時間帯ではなく、意外な時間だった。冷蔵庫から何か飲料を取ろうとしたのだろう。だが足を止めた。僕の机の方へ近づいてきたのだ。
「何見てるんだ」と、田中は言わなかった。「引越し探してる?」と、ズバリと聞いた。
僕は反射的に画面を閉じかけたが、もう遅かった。田中は既に物件サイトが表示されていることに気づいていた。
「……まあ、可能性として」と、僕は曖昧に答えた。
本当は、就職が決まったことを説明するべきだったのだろう。お祝いの言葉をもらったり、一緒に考える時間を持ったりするべきだったのだろう。だが、何故か言葉が出なかった。もしも田中が「そっか、良かったな」と素直に反応したら、それはそれで寂しかった。
田中は何も言わず、黙って出ていった。その後ろ姿は、いつもより背が丸いような気がした。気のせいだったのか、それとも本当にそうだったのか。その夜、僕はなかなか眠れなかった。
翌朝、目覚めるとテーブルの上に紙が置いてあった。いつもの手書きのメモだ。だが、今回は違った。ちゃんと体裁が整えられていた。「規約改訂案(緊急)」と題されていた。
僕は眉をひそめながら、その紙を手に取った。田中の悪い癖が出たのだろうか。昨晩の引越しの話が、またしても謎のルール化されるつもりなのか。
第30条。新たに追加された条項だ。「退去を検討する場合、60日前に通知すること」と、そこには書かれていた。
60日。二ヶ月。それはルールというよりも、「急に決めないでくれ」という意思表示に近かった。いや、もっと正直に言えば、「まだ俺たちの時間がある」という懇願に聞こえた。あの無骨な男が、こんなやり方で気持ちを表現するしかなかったのだ。
田中に「これ、誠意的なの?」と聞いてみた。キッチンで朝食を用意している彼に声をかけた。
「これは俺の誠意だ」と、田中は振り返らずに答えた。しかし、その声には何か照れくさそうなものが含まれていた気がした。
少し笑ってしまった。不器用で、真っ直ぐで、同時に変で、でも確かにこちらの気持ちを汲み取ろうとしている。そんな男の対応が、たまらなく好ましく思えたのだ。
「分かった、60日前に言う」と、僕は約束した。
田中は「よし」と言って、その場でサインした。自分で作った規約に、自分で署名をしたのだ。それから僕に紙を渡した。「お前もサインしろ」と。
僕も素直にサインした。この契約書は、単なるルールではなく、二人の関係を少しずつ確認する儀式なのだと、そのとき初めて理解した気がした。
やっぱりこいつは変だ、と改めて思った。でもそれが、なんか嫌じゃなかった。むしろ、この奇妙な付き合い方が、自分たちにしかできない関係なんだと感じた。
これからの60日間をどう過ごすのか。その時間の重さと大切さが、ようやく自分の中で実感を伴い始めていた。
──(第9話へつづく)
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