その人を、昼間の街で見かけたのは、まったくの偶然だった。
休みの午後、私は駅前の家電量販店にいた。壊れたドライヤーを買いに来ただけだった。カメラや光学機器のコーナーを通りかかったとき、白いシャツを着た店員が、年配の客に望遠鏡の説明をしていた。
声で、すぐにわかった。土星さんだった。
昼間の彼は、私の知らない顔をしていた。丁寧で、少し疲れていて、営業用の笑みを浮かべている。名札には知らない名字が書いてあった。当たり前だ、私は彼の名前を知らないのだから。
声をかけようとして、やめた。
夜の屋上でだけ会う「土星さん」と、この昼間の店員は、どこか別の人のように思えた。彼が望んだ「夜の人」でいるという約束を、ここで壊してはいけない気がした。
私はそっとその場を離れた。けれど、レジへ向かう途中で、鏡張りの柱に映った彼と、ふいに目が合った。
彼は、気づいた。ほんの一瞬、営業用の笑みが崩れて、素の表情が覗いた。驚きと、それから――困ったような、けれど嬉しそうな顔。
私は小さく会釈をして、店を出た。
その夜、屋上に上がると、彼は先に来ていた。いつもより少し、そわそわしているように見えた。
「昼間、すみませんでした」と私は言った。「声、かけないほうがいいかなと思って」
「……ありがとうございます。助かりました」
彼は望遠鏡を覗きながら、ぽつりと続けた。
「情けない話ですけど、昼の僕は、あんまり好きじゃないんです。作り笑いばっかりで。だから、あなたには夜の僕だけを見ていてほしかった」
「私は」と私は言った。「昼のあなたも、ちゃんと働いてて、いい人そうでしたよ」
彼は少しだけ黙って、それから笑った。今夜の笑い方は、営業用でも夜のものでもない、もっと素直なものに見えた。
夜と昼のあいだで、彼が少しだけ、こちらへ足を踏み出した気がした。