第1話: 土星の輪

眠れない夜は、屋上に上がることにしている。

築三十年のこのマンションには、住人が自由に出入りできる小さな屋上がある。夜勤明けで体は疲れきっているのに、頭だけが妙に冴えて眠れない。そんな日、私はそこで夜風に当たるのが習慣になっていた。

その夜、屋上には先客がいた。フェンスの手前に三脚を立て、黒い筒のようなものを空へ向けている男の人。天体望遠鏡だと気づくのに、少し時間がかかった。

「……あの」

声をかけるつもりはなかったのに、私が近づいた気配で彼が振り返った。街灯の逆光で顔はよく見えないけれど、私と同じくらいの年に見えた。

「すみません、邪魔でしたか」
「いえ。ただ、何が見えるのかなと思って」

彼は少し迷ってから、望遠鏡のそばを空けてくれた。
「よかったら覗いてみてください。今日は土星がよく見えます」

接眼レンズに目を寄せると、暗闇のなかに小さな黄色い光があった。そしてその周りに、確かに輪がある。アプリで見る鮮明な写真とはまるで違う。頼りなくて、揺れていて、けれど本物だった。思わず息を呑んだ。

「……ほんとに、輪っかがある」
「初めて見た人は、みんなそう言うんですよ」

彼が小さく笑った気配がした。

三十分ほど、私たちはただ土星の話だけをした。名前も名乗らず、眠れない理由も、彼がなぜ深夜に星を見ているのかも聞かなかった。夜が更けて、私はおやすみなさいとだけ言って階段を下りた。

部屋に戻ってベッドに入ると、いつもより早く眠気がやってきた。まぶたの裏に、あの頼りない黄色い光が浮かんでいる。

明日もまた、眠れないといい。そんなことを思う自分に、少しだけ驚いた。眠れない夜が、少し惜しくなったのは初めてだった。

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