俺は眠れなくなった。
昼も夜も、頭にあるのは午前三時のことばかり。歩数は毎晩増えていく。七十、八十、九十。近づく足音が、数字になって迫ってくる。
何とかしなければ。俺はウォッチの型番を頼りに、ネットを漁った。同じ機種の中古が、いくつか出品されている。その中の一つの説明文で、手が止まった。
「訳あって手放します。深夜の記録は見ないでください」
出品者に連絡を取った。今度の相手は、意外にも応じてくれた。事情を話すと、長い沈黙のあとで、こう返ってきた。
「その機種の、最初の持ち主を知っています。もう亡くなってますけど」
心臓が跳ねた。「亡くなって?」
「田所さんっていう人です。一人暮らしで、睡眠時無呼吸を心配して、このウォッチをつけて寝てた。ある朝、亡くなってるのが見つかった。死因は、心不全とされてます」
「されてます、って」
「発見したとき、彼の顔が、恐怖で引きつってたそうです。それと」相手は言いにくそうにした。「彼の睡眠ログの、最後の夜の歩数が、ゼロだったって。ずっと九十いくつあった数字が、その夜だけ、ゼロ」
歩数ゼロ。もう歩く必要がない。隣に着いたから。出品者の言葉が、よみがえった。
「田所さんのウォッチが、めぐりめぐって出回ってるんです。持ち主が変わるたびに、また遠くから、近づき直す。誰も長くは持てない。だからみんな、手放す」
「じゃあ、どうすれば」
「わかりません。ただ、田所さんが最後に検索してた履歴が、ネットに残ってるらしいです。『心拍 二人ぶん 消す方法』って。彼も、最後まで、外す以外の方法を探してた」
俺は電話を切った。手首の重みが、いっそう増した気がした。
その夜も、午前三時は来る。歩数は、たぶん、九十を超える。
田所さんが着いたのが、九十いくつだったなら――俺に残された夜は、もう、そう多くない。