取材の日、私も店の隅にいた。
情報誌のライターは、五十がらみの穏やかな男性だった。パンの写真を撮り、透さんに話を聞く。そして、やはりその名前を出した。
「この店、昔は克也さんとお二人でしたよね。彼、僕の学生時代の友人で。急なことで、驚いたなあ」
透さんの手が、一瞬止まった。「……はい。相棒でした」
「あなた、あのあと、一人でよく続けてこられた」ライターは言った。「克也、いつも言ってましたよ。透は俺より腕がいいって。だから安心して先に休むって、冗談みたいに」
透さんの目が、揺れた。
「僕はね」ライターは静かに続けた。「あなたが店を畳まずにいてくれて、ほっとしてるんです。克也の作りたかったパンが、まだこの街にあるってことだから。でも」
彼はまっすぐ透さんを見た。「一人で背負い込む顔をしてたら、克也が化けて出ますよ。あいつ、そういうの嫌いだったでしょう」
透さんが、うつむいた。肩が小さく震えていた。私は見ないふりをして、ゲラのページをめくった。
取材が終わり、ライターが帰ったあと、店には焼きたての匂いだけが残った。透さんは長いこと黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「校正の人はさ、間違いは直せても、消えたものは戻せないだろ」
「戻せません」私は正直に答えた。「でも、消えたものの分まで、次の版を良くすることはできます。それが、遺された人の仕事だと思う」
次の版を、良くする。透さんは、その言葉を何度か口の中でくり返した。そして、初めて自分から手を伸ばして、私の手に触れた。粉のついた、あたたかい手だった。
「一人でやってきた店を、二人でやっていくのは――間違いかな」
「いいえ」私は彼の手を握り返した。「たぶん、いちばん正しい直しです」
窓の外が、白みはじめていた。彼の一日が終わり、街の一日が始まる時間だった。