その夜は、朝から雨だった。
零時を過ぎても止まず、私は傘をさして洗濯物を運んだ。生乾きの部屋着ばかりで、こんな日ほどコインランドリーが恋しくなる。ガラス戸を押すと、湿った空気の中に、いつものバターの匂いがあった。透さんが来ている。
「濡れましたね」
彼はタオルを一枚、また私に投げてよこした。今度は驚かなかった。当たり前みたいに受け取って、髪を拭く。
雨の夜のコインランドリーは、いつもより世界が狭かった。ガラスに雨粒が伝い、外の景色を溶かしていく。ドラムの音と、屋根を叩く雨音だけが、私たちを外界から切り離していた。
「透さんは、なんでこの店なんですか」私は聞いてみた。彼のパン屋は、ここから歩いて二十分はあるはずだった。
彼は少し黙ってから答えた。「昔、この近くに住んでたんだ。今はもう、いないけど――そのころの癖で、なんとなく」
いない。その言葉が、水面の波紋みたいに広がった。誰が、とは聞けなかった。
「澪さんは?」
「私は、ただ近いだけです。それと」私は窓の雨を見た。「家に、この音がないから。誰かがいる音」
言ってから、少し恥ずかしくなった。でも透さんは笑わなかった。「わかる」とだけ言って、回るドラムを見た。「一人の部屋って、静かすぎると、耳が痛くなる」
二人ぶんの洗濯機が同時に回っていた。雨と、水と、乾いた風の音。私たちはそれぞれの理由で、眠らない街の同じ灯りに集まっていた。
帰り際、雨はまだ強かった。私が傘をさそうとすると、透さんが「送る」と言った。パン屋とは逆方向なのに。
一本の傘に二人。肩が触れて、離れて、また触れる。彼の腕は、私よりずっと外側に張り出して、私はほとんど濡れなかった。
「おやすみ」
マンションの前で別れるとき、彼の生成りの肩が、雨で色を濃く変えていた。私はそのことを、部屋に戻ってからも長いこと考えていた。