満月の夜、私たちは、いちばん高い棚の箱を、そっと下ろした。《うめの、手放した名前と、あの人との日々》。それが、その箱の札だった。
うめさんは、深く息を吸って、箱に手をかざした。すると、彼女の中に、ふわりと、あたたかくも切ない光が流れ込んでいった。
「……ああ」うめさんの目から、涙があふれた。「思い出した。あの人の、笑った顔。手のぬくもり。いっしょに過ごした、あの日々を。全部……全部、覚えてる」
悲しみも、いっしょに戻ってきたはずだった。でも、うめさんの顔は、それ以上に、幸せそうだった。
「悲しみは、大事な人を愛した証拠だ。私は、それを手放したりして、ばかだったよ。抱えたまま、生きればよかったんだ」
うめさんの姿が、少しずつ、変わっていく。老いていた顔が、若やぎ、藍色の前掛けが、光の粒になってほどけていく。彼女は、ひとりの人間の女性に戻ろうとしていた。
「あかり」うめさんは、私の手を握った。あたたかかった。「この店を、頼んだよ。人がなくしたものを、大事に預かって、いつか返しておやり。目に見えないものにこそ、この世でいちばん大切なものが、詰まっているんだから」
「はい。必ず」私は、涙をこらえて、うなずいた。
うめさんの姿は、月の光に溶けるように、静かに消えていった。最後に、満足そうな微笑みを残して。
私は、藍色の前掛けを、そっと身につけた。カウンターの向こうに座り、店を見渡す。ずらりと並んだ、たくさんの忘れもの。誰かが、取りに来るのを待っている。
引き戸が、カラリと開いた。疲れた顔をした、若い女の子が、おずおずと入ってくる。
「あの……なくしたものを、預かってくれる店って、ここですか」
私は、うめさんがそうしたように、優しく微笑んだ。
「ええ。あなた、何か、落としたのね」
宵闇の路地に、今日も、小さな灯りがともっている。