光だけの会話には限界があった。点滅の回数で「おはよう」「おやすみ」くらいは伝えられても、それ以上は何も言えない。もどかしさが募って、私はある夜、思い切って画用紙にマジックで大きく文字を書いた。
《はじめまして》
ベランダの手すりに紙を掲げ、懐中電灯で照らす。運河を隔てた距離では、たぶん米粒ほどにしか見えないだろう。案の定、向こうから反応はなかった。私は苦笑して紙を下ろした。無茶だったな、と。
ところが翌日、対岸の窓に、白いものが貼りだされた。目を凝らす。大きな紙に、太いペンで一文字ずつ。
《ハ・ジ・メ・マ・シ・テ》
私は声をあげて笑ってしまった。向こうも同じことを考えていたのだ。それから私たちは、毎晩、紙に書いた言葉を掲げ合うようになった。
《夜勤ですか?》と私が書けば、《残業です》と返ってくる。《毎日ですか?》《毎日です。会社に住んでるみたいで》。ふきだしそうになる。会ったこともない相手のはずなのに、その字の丸っこさや、ときどき書き間違えて二重線で消すところに、人柄がにじんでいた。
《眠れないんです。昔から》と、ある夜、私は正直に書いた。書いてから、こんなこと知らない人に、と後悔した。
向こうはしばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと紙が掲げられた。
《僕もです。だから、あなたの灯りに助けられてます》
運河の水面が、街灯を受けてかすかに揺れていた。私はその言葉を、何度も読み返した。助けられているのは、私のほうなのに。
《おやすみなさい》と書いて掲げると、向こうも《おやすみなさい》と返した。二つの灯りが、ほとんど同時に消えた。