第9話 俺のルール
新しいノートに、桐島さんはすべてのルールを書き直した。
黒いハードカバーの手帳で、表紙には金色の文字で「RULES」と書かれている。開いてみると、これまでバイト先で積み重ねてきた桐島さんのルールが、几帳面な字で記されていた。「営業開始の30分前には必ず来る」「レジの1円玉は常に五枚以上用意しておく」「お客さんには必ず笑顔で対応する」。どれも当たり前のようで、でも誰もここまで細かく書き出さない類のものばかりだ。
それを横で見ていたら、桐島さんが突然ペンを置いて、ぽつりと言った。
「ハルトも何かあれば書いていい」
俺は目を上げた。これまで、桐島さんのルール帳は桐島さんのものだと思っていた。他人が口を挟む余地なんてないと。
「俺のルールを桐島さんのノートに?」
「ここは二人で使ってるバイト先だから、二人分あっていい」
桐島さんの言い方は相変わらず淡々としていたけど、その言葉には何か大事なものが含まれている気がした。俺は少し考えた。このバイトを始めてから、桐島さんのことをずっと観察してきた。不思議な先輩だと思いながら、毎日一緒に働いている中で気づいたこと。
そしてふと、思いついた。
「じゃあひとつだけ。『桐島さんが鼻歌を歌っていたら、今日は調子がいい』」
桐島さんが止まった。ペンを握ったままの手が、宙で固まっている。
「それはルールじゃない」
その声には、いつもより強い感情が混じっていた。驚きなのか、困惑なのか、はたまた別の何かなのか。
「観察記録です。ルール帳に書いていいって言ったじゃないですか」
俺は半ば強引に答えた。本当は、これまでに何度も気づいたことだ。桐島さんが機嫌よく仕事をしている日は、決まって小さな鼻歌が聞こえる。童謡だったり、流行歌だったり、よくわからないメロディだったり。その歌声は大きくも小さくもなく、ただ自分に聞こえているかどうかくらいの音量で漏れている。
少しの間が流れた。レジの上の時計が、カチカチと秒を刻んでいるのが聞こえる。
桐島さんはゆっくり、ペンを動かした。
「……」
本当に書いた。俺の「ルール」を、彼女のルール帳に。
書き終わった後、桐島さんは長く息を吐いた。
「……ありがとう」と小さく言った。「変なルールだけど、嫌じゃない」
嫌じゃない、か。桐島さんにしては、だいぶ積極的な表現だった。
俺は内心、ほっと息をついた。桐島さんのルール帳に自分の痕跡を残すこと。それはこのバイト先が、単なる稼ぎ場ではなく、もう少し特別な場所になったということかもしれない。桐島さんもそう感じているのだろう。
その日の営業終了後、片付けをしながら、桐島さんはそのルール帳を何度も開いては閉じていた。確認するでもなく、ただ触れているような感じで。そして最後に、いつもより丁寧にバッグにしまい込んだ。
俺も気づかないふりをしながら、その様子を見守った。