第9話 最後の動画
田村さんから、一つだけお願いがあると連絡が来た。
「できれば、ひかりのことを動画に撮ってもらえますか。私が見られなかった分を、誰かに見ていてもらえたら」
そう書かれたメッセージを何度も読み返した。サキは、田村さんが何を求めているのか、すぐには理解できなかった。見られなかった分──それは、一緒に過ごせなかった時間のことなのだろう。亡くなる前の、ひかりの日常。
サキは部屋の片隅に三脚を立てた。カメラを部屋の真ん中に向けて、回しっぱなしにした。何もしない。ただ、そこにある時間を記録するだけだ。
時間がゆっくり流れていった。一時間、何もしなかった。床に座り、膝を抱えて、ぼんやり天井を見つめていた。外から聞こえてくる車の音。隣の部屋の生活音。そういった何でもない音だけが部屋を満たしていった。
カメラが捉えているのは、退屈な時間だ。何の変化もない。でも、その退屈さのなかに、何かが映り込んでいるはずだった。
確認すると、映り込みは六回あった。
棚の前で何かを見ている姿。窓の外を見ている後ろ姿。部屋の中をぐるっと歩いている足音も聞こえてくるような動き。床に座ってじっと何かを考えているような表情。天井を見上げているその顔。そして、最後。
カメラを真正面から見ている。
その瞬間、サキは息を止めた。映像のなかで、ひかりはカメラに気づいていた。いや、もしかしたら、ずっと気づいていたのかもしれない。でも見つめ返してくれた。その目は柔らかく、どこか寂しそうでもあり、安らかでもあった。
最後のコマで、ひかりは笑っていた。
本当に小さな笑顔だった。誰かに見せるためのものではなく、自分のためだけの笑顔。サキはそれをずっと見つめていた。動画を再生し、巻き戻し、また再生する。何度も何度も。その笑顔が消えてしまうことが怖かった。
田村さんに送ると、「ありがとうございます」とだけ来た。
画面に表示されたその短いメッセージを見ながら、サキは何か言葉を返そうとしたが、何も思いつかなかった。返信欄を開いて、消して、また開く。その繰り返しだった。
でもその後に、別のメッセージが届いた。
「行かせてあげていいですか」
サキの手が止まった。その意味を、何度も考えた。行く。どこへ。誰が。ひかりが?
画面を見つめたまま、サキは動かなくなった。部屋は静寂に包まれていた。外の音さえ、遠く聞こえるようになっていた。
返信をするべきか、しないべきか。返信するなら、何と書くべきか。
サキは、もう一度、その動画を再生した。最後のコマまで早送りして、ひかりの笑顔を見た。その笑顔は、何かを言っているようにも見えた。何かを求めているようにも見えた。あるいは、何かを許しているようにも見えた。
スマートフォンを握る手に、ゆっくり力を込めた。
──(最終話へつづく)