第8話 向井さんの返事
「知っている人に会うのって、緊張しますよね」という余白への返事は、一週間後に来た。
『それ、俺のことですか』
心臓が止まるかと思った。気づかれていた。向井さんも、書き込みが往復していることで、相手が実在すると気づいていたんだ。そして、「俺のこと」と書いた。私が向井さんを知っているかもしれないと、思っている。
本を読む手が震えた。何度も同じ文を読み返した。短い一文なのに、その中に向井さんの戸惑いと、そして期待のようなものが詰まっているような気がした。
駅前のカフェに座りながら、私はその本を開いた。周囲の雑音が遠く感じられる。向井さんとの会話は、この本の中だけのものなのに、急に現実味を帯びてきた。
どう返せばいいか、三日間考えた。
返す言葉を考えるたびに、いろいろなバージョンが浮かぶ。「はい、向井さんです」と素直に答えるべきか。それとも、もっと慎重に、このままあいまいなままでいるべきか。「知っている」と言ったのは、実は職場で何度か顔を見かけたくらいの関係性だ。向井さんは私に気づいているだろうか。
夜寝る前のベッドの中で、天井を見つめながら考えた。このやりとりが続くことで、向井さんとの関係性が変わるのではないか。本の中での向井さんは、言葉で丁寧に考えを伝える人だ。実際の向井さんとの関係が、そこまで深くなかったことが、急に不安になった。
職場では、向井さんは営業部門にいる。私は企画室。朝礼で顔を見かけることはあっても、言葉を交わしたことはない。もしかして、向井さんは私のことを全く知らないのではないか。あるいは、「知っている人」とは別の誰かのことを想像しているのではないか。
最終的に書いたのは、こうだ。
『そうかもしれません。でも、ここでの言葉のほうが、あなたのことをよく知っている気がします』
ペンを握る手が、また少し震えた。この文は、曖昧さと誠実さの両立を狙ったものだった。向井さんが誰であるかを確定させず、同時に、この本の中での出会いを大切にしたいという気持ちを伝えたかった。
本を棚に戻した。返事が来るかどうか、分からなかった。
図書館の閉館時間が近づいていた。明日も来るだろう。あさっても来るだろう。もし返事がなかったら、どう感じるだろうか。もし返事があったら。
帰り道、スマートフォンのポケットの中で、本と向井さんのことばかり考えていた。