俺の先輩は変すぎる 第7話「ルールの外の桐島さん」

第7話 ルールの外の桐島さん

閉店後の片付けで、桐島さんが鼻歌を歌っていた。

初めて聞いた。もう三ヶ月もこの店で桐島さんと一緒に働いているのに、今まで一度も聞いたことがない。俺は瓶をラックから取り出す手を一度止めて、その音をよく聞こうとした。メロディーははっきりしていたが、何という曲かは分からなかった。

「桐島さん、鼻歌とか歌うんですか」

桐島さんが少し固まった。手に持っていた雑巾の動きが止まる。

「歌ってた?」

「歌ってましたよ。知らない曲だったけど」

桐島さんはゆっくりと雑巾を動かし始めた。その表情は少し困ったような、照れ隠しのような顔になっていた。

「……気づいてなかった。片付けのときはよく出る」

その言葉を聞いて、俺は思わず微笑んだ。桐島さんのルール帳――あの分厚いノートには、仕事に関する細かなルールがびっしりと書き込まれている。営業時間中の所作から、在庫管理の方法まで、実に事細かく記録されていた。それなのに、自分の鼻歌についてはまったく気づいていなかったらしい。

「ルール帳には書いてないですよね、それ」

「書いてない。どう分類すればいいか分からない」

俺はグラスを拭きながら笑った。三ヶ月前、初めてこの店で働き始めたとき、桐島さんが差し出したルール帳を見たときの衝撃は忘れられない。あの厚さ、あの細密さ。しかし今、その完璧なルール体系の中に、分類できない隙間があることが、なぜか嬉しかった。

「全部ルールにする必要ないんじゃないですか」

「そうかもしれない」

桐島さんは少し考えた。その間、カウンターを拭く音だけが響いていた。照明が落とされた店内は、いつもと違う雰囲気をしていた。夜の静寂の中で、この二人の会話だけが存在しているような感覚があった。

「鼻歌が出るのは、調子がいいとき、かな」

その答えは、いかにも桐島さんらしかった。曖昧さを避け、でも確実な言葉。自分の内面を分析し、整理しようとする姿勢。

「じゃあ今日は調子がよかったんですね」

「……そうかもしれない」

桐島さんが少し、照れていた。それも初めて見た。普段の厳密で、冷静な表情とは違う、柔らかな顔つきになっていた。その瞬間、俺は気づいた。桐島さんも完璧な人間じゃないんだ。ルール帳の外に、ちゃんと人間らしい部分を持っているんだ。

その晩、帰路につきながら、俺はもう一度あの鼻歌を思い出そうとしていた。明日、もう一度聞けたら、ルール帳に書かれていない新しい側面が、また一つ見えるような気がした。

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