第2話 雨の日の意味
その日、店に来たのは昼過ぎだった。窓の外は朝からずっと雨が降り続いていて、客足も少ないいつもより静かな午後だった。カウンター席で伝票を整理していると、桐島さんが厨房から出てきて、メモ帳に何か走り書きしていた。その真剣な表情が気になって、思わず声をかけてしまった。
「桐島さん、さっきのルール、『雨の日は一球多く投げる』って言ってたじゃないですか。あれはどういう意味ですか」
桐島さんはペンを持ったまま、少し考えるように天井を見た。その沈黙が数秒続いて、俺は自分の質問が失礼だったんじゃないかと後悔し始めていた。しかし桐島さんは静かに口を開いた。
「野球の話じゃないです。あれはどういう意味ですか」と続けた俺の言葉に、ようやく桐島さんが視線を俺に向けた。
「雨の日は人の動きが少し鈍い。だから料理を出すタイミングを一テンポ早くする。ワンオペの時の自分へのメモだった」
なるほど、と頷きかけたが、すぐに疑問が浮かんだ。雨の日に動きが鈍くなるから、早めに出す。そういう因果関係の説明は理解できた。だけど、なぜそれを野球で例える必要があるのか。
「なんで野球で例えたんですか」
「その方が覚えやすかった」
短い返答だったが、桐島さんの顔は至って真剣だった。俺は意味は分かった。いや、表面的には分かった。でも、本当にそれが合理的かどうかはまだ分からなかった。野球で例えることが本当に覚えやすいのか。普通は直接的に「雨の日は料理を早めに出す」と書けばいいのに。
「桐島さんって、いつからそういうルールを作るようになったんですか」
この質問は、単なる curiosity ではなかった。桐島さんの思考の癖を理解したいという、もっと根本的な欲求から出ていた。
「小学生の頃から。給食の食べる順番のルールとか作ってた」
小学生。その年代で既にそんなことをしていたのか。実は俺も子どもの頃、得点の計算方法とかゲームのルールを自分で作ったりしていた。でも、それは遊びの範囲だった。食べる順番のルールまで作るとは。
「その頃から変だったんですね」と言うと、桐島さんが「変?」と首を傾げた。その反応が予想外で、俺はとっさに補足した。
「変わってるなと思って」
桐島さんは俺の顔を見つめた。その視線は責めるでも、笑うでもなく、何か確認するようなものだった。そして、ゆっくりと口を開いた。
「そうか」と桐島さんは言った。「ルールがないと、不安だから」
その一言で、俺はようやく何かを理解した気がした。桐島さんにとってのルールは、遊びや工夫ではなく、世界を理解するための必要不可欠なものなのだ。雨の日に人の動きが鈍くなるという不規則な現象も、野球というルールの中で考えることで、初めて対処できるようになるのだろう。
俺は桐島さんのメモ帳に走り書きされた「雨の日は一球多く投げる」という言葉をもう一度見つめた。今なら、その言葉の重さが少し理解できた気がした。
──(第3話へつづく)