第2話 ツキ
女の子は「ツキ」と名乗った。
「本名じゃないけど、夢の中では名前より雰囲気で呼ぶほうがいい」と言った。意味はよく分からなかったが、そういうものかと思った。リョウは彼女の顔をもう一度見つめた。淡い光に照らされた横顔は、どこか儚げで、本当にここが夢の中なのだと改めて実感させた。
「ここはどういう場所なの?」とリョウが聞くと、ツキは少し驚いた顔をした。
「知らずに来た人は初めて。普通は夢渡りの感覚がある人しか辿り着かないのに」
「夢渡り?」
「他人の夢に入ること。ここはその中継点。この駅から出ているホームに乗ると、誰かの夢に入れる」
リョウは周囲を見回した。駅の構造は現実の駅に似ていたが、どこか曖昧だった。柱の影は定まらず、壁の色も見つめていると淡くなったり濃くなったりする。しかし不気味ではなく、むしろ心地よい浮遊感があった。
「誰かって、知らない人の夢にも?」
「知らない人のほうが多い。でも、眠っている人なら誰でも夢を見てる。その夢がホームになってる」
リョウはホームの案内板を見た。表示されていたのは、現実の駅にはない不思議な行き先ばかりだ。「図書館の夢」「海辺の夢」「子どもの頃の夢」「誰かの不安」「懐かしい人」——どれも、誰かが今夜見ている夢であることは確かだった。行き先のすぐ下には、時刻表のようなものが表示されている。夢はいつか覚めるから、時間の表示があるのだろうか。
リョウは少し考えてから、ツキに聞いた。
「どうやって乗るんですか」
ツキは少し笑った。その笑顔は、どこか大人っぽくもあり、どこか悪戯っぽくもあった。
「乗り方より、降り方を先に覚えて」
「降り方?」
「そう。夢から出る方法。これを知らないと、閉じ込められちゃう」
リョウの心臓がビクンと跳ねた。閉じ込められる。その言葉の意味を、彼女はゆっくり説明し始めた。
「誰かの夢にいすぎると、夢を見てる本人と同じタイミングで起きることになる。でも、ここの駅から乗った人間は、どうしても少し遅れるんだ。その隙間に、人は夢と現実の間に取り残される」
「取り残される……?」
「眠ってるわけでもなく、目覚めてるわけでもない。そういう人たちが、時々ここに迷い込んでくる。ずっと、この駅をさまよってる」
ツキはホームの向こう側を指差した。リョウが目を凝らすと、薄暗い柱の陰に人影が見える。ぼんやりした輪郭で、時々ゆっくり動く。その動きは目的地を探すようであり、迷いながらさ迷うようであった。
「あれが、降り忘れた人たち」
リョウは息を呑んだ。それでも、ツキの声は静かだった。
「だから教える前に、まずはそれを見とく必要がある。夢ってのは、思った以上に深い。そして、逃げたくても逃げられないことがある」
「なぜ……そんなことを教えるんですか」
「あなたが、夢渡りの素質を持ってるから。知ったからには、責任がある」
ツキはリョウの手を軽く握った。彼女の手は冷たく、夢のなかの光を吸い込むように暗かった。
「だから、これからあなたが何をするにせよ、覚えていてほしい。夢から出るには、自分の本当の名前を声に出して呼ぶこと。それだけで、現実へ引き戻される」
「本当の名前……」
「あなたの、この世界で唯一のもの」
その時、駅全体が微かに揺らいだ。ツキは天井を見上げた。
「もう時間だ。あなたは、どこへ行きたい?」
── 第3話へつづく