俺とお前と深夜の攻防 第10話(最終話)「笑えてあたたかい」

第10話(最終話) 笑えてあたたかい

引越しは、結局しなかった。

会社から少し遠いのは変わらないが、乗り換え一回で通える路線を見つけた。それでいいことにした。朝の通勤ラッシュで揺られることになるのは避けられないが、この部屋を離れることを思えば、そんなことは些細な問題だった。駅までの道のりも覚えたし、コンビニのおばちゃんとも顔見知りになった。こういう日常の積み重ねって、案外大事なんだと気づいた。

田中に言うと、「第30条の発動はなしか」と言われた。「60日前通知の条文、無駄になったな」

「無駄じゃないよ。おかげで考え直した」

その言葉の本当の意味を、俺たちはお互いに理解していた。規約という建前を借りて、本気で向き合うことができたということだ。笑える話だが、同時に真摯な営みでもあった。

田中は少し間を置いて、「そうか」と言った。それだけだった。でも俺には、その短い返答に田中の満足感が詰まっているのがわかった。彼が何かを企んでいるときの沈黙は、いつもそんな感じだった。

その夜、田中がリゾットを作った。前回よりバリエーションが増えていた。チーズが多めで、なんか贅沢な感じだった。キッチンから漂ってくるバターの香りは、いつもより濃かった気がする。フライパンの中で、米粒がじっくりと白ワインを吸収していく音を聞きながら、俺はソファに寝転がって天井を眺めていた。この部屋の天井のシミも、もう友達みたいなもんだ。

「なんかいいことあったの?」と聞くと、「お前が引越さないことにしたから」と答えた。

その答え方は、最高にらしかった。大げさなことは言わない。ただ事実を述べるだけ。でも言葉の端々に、俺たちの共生生活がこれからも続くことへの喜びが滲み出ていた。

「それでリゾットのグレードが上がるの?」

「誠意的祝杯として」

食べながら、ふと規約のことを思った。17条から始まって、精鋭化されて13条になった規約。法的効力はない。意味は誠意。この奇妙な紙切れ一枚で、俺たちはどれだけ本気になったのだろう。どれだけ真面目に、そして時には笑いながら、この共同生活について考えたのだろう。

馬鹿らしいとも思ったが、この部屋の時間はだいたい居心地がよかった。玄関の靴のごちゃごちゃも、洗面台の歯磨き粉の飛び散りも、リビングに積み重なった漫画の山も、すべてが俺たちの生活の証だった。

深夜のコンビニも、交渉も、謎の作業も、規約改定会議も。夜中の二時に和解条項について真顔で議論したこと。パンの買い置きをめぐる激論。意味不明な家事分担表の作成。ハンガーの使い方についての長編演説。すべてが、この部屋の物語だった。

笑えてあたたかい。そういう日常が、ここにあった。

俺たちは二人で、このタイトルのない日常を積み重ねていくんだろう。これからも。田中の作ったリゾットを食べながら、俺はそう思った。チーズが多めの、ちょっと贅沢なリゾット。それは最高の証だった。

──(完)

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