第9話 扉を開ける
開けてはいけないと、頭では分かっていた。
前の住人が残した言葉を、何度も読み返した。近づきすぎた、と彼女は書いた。その短い一文だけで、この部屋から何かが私を呼んでいることを理解するのに十分だった。壁越しに聞こえる声も、廊下で感じる視線も、全てはあの隣の部屋から発せられているのだろう。分かっていた。本当に分かっていたのだ。
でも夜中の2時に、玄realm関のドアが内側からゆっくりと開く音がした。
自分の部屋のドアが。
音は確かだった。キーという古い蝶番の悲鳴のような音。ドアが開くときの独特の空気の流れ。私は布団の中で息を殺した。心臓の音が耳の中で鼓動するほど大きく聞こえた。もしかして、自分が開けたのか。夢遊病のようなもので。しかし、それは言い訳だった。
鍵はかかっている。確認した。毎晩、玄関の鍵を三度確認してから眠るのが習慣になっていた。でも確かに、ドアノブが動いている。外側から、誰かが試している。あるいは、内側から何かが押し出そうとしている。そんなことがあるはずがない。あるはずがない。
恐怖で体が動かなかった。それが、どのくらい続いたか分からない。時間の感覚は消えていた。息をするのも忘れてしまった。ただ暗闇の中で、ドアノブの微かな音に耳を澄ませていた。やがて音は止まった。静寂が戻ってきた。その静寂が、さらに恐ろしかった。
気づいたら廊下に出ていた。
いつの間に布団を出たのか、廊下に足を踏み出したのか、記憶にない。ただ、自分の体が勝手に動いていた。あるいは、呼ばれていたのかもしれない。廊下の冷えた空気が肌に刺さった。窓から薄ぼんやりとした光が差し込んでいた。月の光か、それとも街灯の光か。いずれにせよ、それは何の安心ももたらさなかった。
隣のドアの前に立っていた。
気づいたときには、もう目の前にそのドアがあった。見慣れた白いペンキの塗られたドア。前の住人が長年住んでいたはずなのに、何故かこのドアだけは新しく見える。あるいは、新しく見えるように自分の脳が錯覚しているのかもしれない。
ドアに手をかけた。
掌は汗でべっとりしていた。冷たい金属のノブが肌に触れた瞬間、全身に電流が走った。鍵がかかっているはずだった。このアパートに来てから、一度も開けたことのないドア。でも、ノブは回った。
部屋の中は暗かった。
電気をつけようとしたが、スイッチが見つからなかった。壁を手探りで探った。何もない。あるはずなのに、何もない。焦りが胸を締め付けた。
スマホのライトを向けると、部屋の中央に椅子が一脚あった。
それは古い木製の椅子だった。背もたれが高く、どこか古風な作りをしていた。誰かの家の物置に放り込まれているような、時代遅れな椅子。そのすぐ隣に、靴跡のような埃の跡があった。何度も同じ場所に置かれ、何度も動かされた。その繰り返しの痕跡。
椅子に、誰かが座っていた。
人影はぼんやりとしていた。スマホのライトが完全に照らしていないのか、それとも自分の目が拒んでいるのか。見つめても、その顔を認識することができない。ただ、そこに何かがいる、という確かな感覚だけがあった。
暗闇の中から、声が聞こえた。
低く、掠れた、性別さえ判別できない声。
「やっと来たな」
その一言で、私は理解した。これが、壁越しに聞こえていた声だったのだと。毎晩私を呼んでいた声の正体だったのだと。
──(最終話へつづく)