第3話 前の住人
不動産屋で少し話を聞いた。雑談のように切り出すのがコツだと思った。何か聞きただす姿勢を見せれば、相手は警戒するだろう。だから淡々と、まるで他愛もない質問をするように。
「あのマンション、隣の部屋って長く空いてるんですか?」
担当者の表情が、かすかに変わった。その微かな変化を見逃さなかった。何かある。壁の音だけでは説明のつかない、何かが。
「そうですね……少し前まで入居されてた方がいたんですが、急に退去されまして」
「急に、というのは?」
担当者は天井を見つめた。営業スマイルが一瞬消える。その顔を見ていると、この人は本当に何かを隠しているんだと確信した。
「詳しくは言えないんですが……その方、体調を崩されたみたいで。引越し先は教えてもらえなかったです」
体調。その言葉が妙に引っかかった。深夜に壁を叩く習慣のある人間が、体調を崩した。因果関係があるのだろうか。それとも単なる偶然か。俺は神経質になりすぎているのか。
「名前とか、どんな方だったか聞いてもいいですか?」と言うと、担当者は「個人情報なので」と断った。当然だった。プライバシーの壁は、壁の音よりも厚いのだ。ただ、その拒否の仕方が少し急だった気がした。
一つだけ分かったのは、前の住人は「若い女性」だったということだ。担当者が資料を取り出した際、ちらりと見えた申込書の備考欄に、そう書いてあった。その文字は担当者の視線が向く前に、俺の眼に飛び込んできた。
若い女性が、深夜に壁を叩いていた。
その事実が、頭の中でぐるぐると回り始めた。何か訴えかけようとするような、助けを求めるような音だったのか。それとも、ただの癖か。深夜の静寂の中では、どんな音も意味を持ってしまう。
そして急に退去した。
体調不良という理由で。
本当にそれだけなのか。
帰宅してからも考え続けていた。夜明けまで眠れず、朝日が昇ったころようやく床についた。仕事には行かずに休んだ。俺の意識は、その部屋の中に居座ったままだった。その夜も2時になった。3回、壁が鳴った。
前と同じリズム。規則正しく、何かを伝えようとするように。
俺は思い切って、1回だけ叩き返した。
心臓が早くなった。何をしているのかと、自分でも呆れた。相手は退去した人間なのだ。もう誰も住んでいないはずの部屋に。それなのに音は返ってきた。
しばらく後、2回返ってきた。
その音を聞いた瞬間、全身に冷たい何かが走った。確かに、2回。明確に、意識的に。
壁の向こうは、まだ何かを伝えようとしている。
そして俺は、その何かの存在に気づいてしまった。
──(第4話へつづく)