隣の部屋から、いつも料理の匂いがした。
深夜一時。僕がカップ麺を食べているとき、壁の向こうから玉ねぎを炒める匂いが漂ってくる。バターと醤油。たまに生姜。
一度も顔を見たことがない。引越してきて八ヶ月、廊下ですれ違ったこともない。でも毎晩、確かに誰かがいる。
深夜に料理する人間は、何かを抱えていると思う。根拠はないけど、そんな気がする。昼間に片付けられなかった感情を、包丁と火で処理しているような。
僕もそうだから、わかる。
仕事がうまくいかない夜は必ず、隣から出汁の匂いがした。失恋した夜は、スパイスの匂いがした。なんとなく励まされている気がして、馬鹿みたいだと思いながら、少し救われていた。
先月、隣が引越した。
搬出の日、廊下でやっと会えた。三十代くらいの女の人で、段ボールを抱えていた。
「お世話になりました」と彼女は言った。
「こちらこそ」と僕は言った。
何のお世話になったのか、うまく説明できなかった。でも、本当にそう思っていた。
今夜もカップ麺を食べた。
壁の向こうは静かだった。
新しい隣人はまだ料理をしないらしい。
早く、匂いがするといいなと思った。