第10話: 空室の理由

それから、半年が過ぎた。

真央は、まだ四〇二号室に住んでいた。あの夜以来、点呼の声は一度も聞こえなかった。マンションは、ようやく普通の、静かな集合住宅になった。

少しずつ、新しい住人も増え始めた。長く空室だった部屋に、明かりが灯るようになった。真央は、そのたびに、なぜか安心した。数が、増えていくことに。

ある日、エントランスで、新しく越してきた若い女性とすれ違った。彼女は、不安そうな顔をしていた。

「あの」女性が、思いきったように声をかけてきた。「変なこと聞くんですけど……このマンション、夜中に、上の階から音がするって噂、ありませんか」

真央は、少し驚いた。

「昔は、あったかもしれません」真央は、静かに答えた。「でも、もう、大丈夫ですよ」

「本当ですか」

「ええ。ちゃんと、みんな無事だって、確かめてもらえましたから」

女性は、意味がわからないという顔をしたが、真央の穏やかな表情に、少しほっとしたようだった。

真央は、エントランス脇の石碑に目をやった。今も、花が絶えることはない。真央が、毎週供えている。

「困ったことがあったら、いつでも言ってください」真央は微笑んだ。「ここの管理人さんは、とても、住人思いの人だったそうですから」

女性は、きょとんとしていたが、「ありがとうございます」と頭を下げて、部屋へと入っていった。

真央は、石碑の前で、いつものように手を合わせた。

「木ノ下さん。また一人、増えましたよ」

風が、穏やかに吹いた。

もう、点呼の声は聞こえない。けれど、真央は時々思う。今も、どこかで木ノ下が、静かに住人を見守っているのかもしれない、と。

かつては恐怖だったその存在が、今は、なぜか心強かった。

家賃の安さには、理由がある。でも、その理由は、もう、恐ろしいものではなくなっていた。

このマンションは、二十年ぶりに、本当の意味で、住人を守る場所に戻ったのだ。

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