服部が、店に戻ることを決めたのは、それから一週間後だった。
「佐野殿。拙者、明日、あの店へ、行ってまいる」
その夜、服部は、いつもの黒装束ではなく、きちんとしたシャツを着ていた。忍者ではなく、ひとりの、菓子職人の顔で。
「そっか。ついに、か」
「そなたのおかげでござる。そなたが、逃げるな、と言うてくれねば、拙者は、一生、この町で、忍者ごっこをしておった」
「俺は、なんもしてないよ。あんたが、勝手に俺の部屋に来て、勝手に生活を正して、勝手に立ち直っただけだ」
「はは。違いない」
服部は、笑った。
「だが、そなたも、変わったぞ。出会った頃は、土気色の顔で、コンビニ弁当ばかり食うておった。今は、自分で、菓子を焼くまでになった」
言われて、気づいた。そうだ。僕も、変わったのだ。
深夜に動画を眺めるだけだった生活に、菓子作りという、楽しみが増えた。冷蔵庫は、きれいなままだ。ラジオ体操も、なんだかんだ、続いている。定時で帰る日も、増えた。
全部、この、変な忍者のおかげだった。
「服部さんが、いなくなったら、俺、寂しくなるな」
「案ずるな。店は、隣町ぞ。それに——」
服部は、一枚の、任務書を差し出した。
最後の任務書だった。
『任務・最終 弟子は、修行を続けるべし。師匠の店に、菓子を習いに来るべし。ただし、玄関から来ること。天井からは、禁ずる』
僕は、笑った。
「天井から行くわけないだろ」
「そなたも、だいぶ、忍びらしくなったゆえ。用心のためだ」
「なってないよ! 一片も、忍者になってないよ!」
二人で、笑った。
最後の夜、僕たちは、一緒に、菓子を焼いた。手裏剣クッキー。服部の、あの、優しさの詰まった菓子だ。
焼きあがったクッキーを、二人で、頬張った。
「うまい」と、僕は言った。
「であろう」と、服部は言った。
窓の外に、夜明けが、近づいていた。
服部が、この町で過ごす、最後の夜が、静かに、明けようとしていた。