問題は、服部が、夜だけの存在ではなかったことだ。
その日、僕が残業していると、会社の窓の外に、黒い影が、へばりついていた。
ビルの、七階である。
「うわあああ!」
叫んだ僕を、同僚たちが、変な目で見た。窓の外を指さすが、影は、すっと消えていた。
トイレに立つと、個室のドアの上から、ぬっと、覆面の顔がのぞいた。
「佐野殿。精が出るな」
「会社まで来るな! どうやって七階まで!」
「壁を、登った」
「スパイダーマンか!」
服部は、するりと個室に降りてきた。
「そなた、働きすぎである。顔色が、土気色ぞ。本日の任務——定時退社」
「無理に決まってんだろ! 締め切りが」
「案ずるな。この服部が、手を打った」
嫌な予感がした。デスクに戻ると、なぜか、僕の担当していた資料が、きれいに完成していた。しかも、僕の字で。
「あんた、いつのまに……」
「潜入し、清書しておいた。内容は、そなたの下書きのままゆえ、心配無用」
「セキュリティ! うちの会社のセキュリティ!」
しかし、おかげで、僕は久しぶりに、定時で帰れた。
帰り道、服部が、屋根の上を、僕と並んで、ぴょんぴょん跳ねながらついてきた。目立つ。めちゃくちゃ、目立つ。
「下、歩けよ! 目立つだろ!」
「忍びは、高きを行く」
「バレバレだよ! ぜんぜん忍べてない!」
それでも、久々に太陽の沈む前に帰れた僕は、少しだけ、嬉しかった。
夕飯を、服部と食べた。今夜は、天ぷらだった。相変わらず、料理がうまい。
「なあ、服部さん。あんた、なんで、俺なんかに構うんだ。ほかにも、隣人はいるだろ」
服部は、天ぷらを揚げる手を、止めた。
「……そなたが、昔の、拙者に、似ておるゆえ」
「昔の?」
「働きすぎて、大事なものを、見失っておった、昔の拙者に」
服部は、それ以上、語らなかった。
でも、その言葉には、いつものふざけた調子は、なかった。
僕は、揚げたての天ぷらを、そっと、口に運んだ。