あさひが、亡くなっていた。
その事実は、僕の心に、深く刺さった。なぜ、こんなにも痛むのだろう。ただの時計番の僕が、なぜ。
その夜、母親を家まで送り、僕は、ひとりで夜の町を歩いた。止まった時計を、いくつも巻いた。かちり、かちり、かちり。いつもの仕事なのに、手が、震えた。
古い音楽教室の前を通りかかった。あさひの名前を見つけた、あの場所。
僕は、なかへ入った。ピアノの前に立って、鍵盤に、指を置いた。
そのとき、指が、ひとりでに、動いた。
ぽーん、ぽーん、と、たどたどしく、でも、確かなメロディを、奏ではじめた。あさひが、弾けなかったと言っていた、あのソナタ。
僕は、弾けるはずがない。ピアノなんて、触ったこともないのに。
でも、指は、鍵盤の形を、覚えていた。
記憶が、雪崩のように、流れ込んできた。
この教室。あさひと、二人で、通っていた。あさひは妹だった。僕は、兄だった。あの日、事故に遭ったのは、あさひだけじゃない。僕も、一緒だった。あさひをかばって、僕も——
僕は、鍵盤に、突っ伏した。
思い出した。僕も、あの日、死んだのだ。あさひと、同じ日に。
だから、名前も、昔のことも、思い出せなかった。僕は、時計番になることで、自分の死を、忘れていた。止まった時計を巻き続けることで、自分の止まった時を、見ないようにしていた。
あさひが、初めて会った気がしないと言ったのは、当然だった。僕たちは、兄妹だったのだから。
でも、僕は、時計番になった。あさひは、公園に取り残された。同じ日に死んだのに、なぜ、別々の場所へ。
僕は、鞄のなかの、大きな鍵を握りしめた。
この鍵は、どんな時計も巻ける。止まった時を、動かせる。
もしかしたら——僕自身の、止まった時も。
窓の外に、夜明けの気配が、にじみはじめていた。時計番の僕は、朝が来る前に、消えなければならない。
でも、その前に、確かめたいことが、あった。