男が、鏡に手を伸ばそうとした、その瞬間。
私は、最後の力で、体をねじった。飢えた体に逆らって、私は、手招きをやめさせようとした。
そして、口を、動かした。声は届かないと知っていた。それでも。
『にげて』
鏡のなかの、遅れて動く自分。男は、その口の動きを、読んだのかもしれない。ぎょっとした顔で、後ずさった。荷物を放り出して、階段のほうへ、駆けていった。
廊下から、足音が、遠ざかっていく。
助かった。私は、崩れ落ちた。少なくとも、あの人は、逃げた。私は、誰も、引きずり込まずにすんだ。
でも——鏡は、飢えたままだった。
新しい住人を得られなかった鏡は、私を、より深く、飲み込んでいった。反転した部屋の輪郭が、少しずつ、ぼやけていく。私の体も、うっすらと、透けはじめた。次の住人が来るまで、私は、この鏡のなかで、飢え続けるのだ。うずくまる、あの古い女のように。
やがて、私も、あの女と同じになる。誰かが越してくれば、また、手招きをしてしまう。今度は、逃がしてやれる自信は、ない。
物語は、終わらない。
古いマンションの、薄暗い廊下。突き当りには、今も、あの鏡がある。
昼は、ただの古い姿見。夜は——見てはいけない。
もし、あなたが、そんな廊下に住むことになったら。
夜、突き当りの鏡の前を通るとき、決して、目を合わせないでほしい。
そのなかで、あなたと同じ顔をした誰かが、ほんの少し遅れて手を挙げ、優しく、手招きをしていても。
それは、あなたを呼んでいるのではない。
逃げて、と、叫んでいるのだ。
飢えた体に、逆らえないまま。
かつて、あなたと同じように、そこに越してきた、誰かが。