翌朝、明るい廊下で鏡を見ても、何もおかしくはなかった。私が手を挙げれば、鏡のなかの私も、寸分たがわず手を挙げる。当たり前のことだった。
やはり、昨夜は疲れていただけ。私はそう結論づけて、仕事に出かけた。
新しい職場は、まだ慣れない。神経を張りつめて一日を過ごし、帰宅したのは深夜だった。
廊下は、また薄暗かった。蛍光灯が、じじ、と鳴っている。
突き当りの鏡の前を通り過ぎようとして、私はふと足を止めた。試してみたくなったのだ。昨夜のあれが、本当に気のせいだったのか。
私は鏡の正面に立ち、右手を、ゆっくり上げた。
鏡のなかの私は——確かに、遅れて右手を上げた。
昨夜より、遅れが大きい気がした。コンマ数秒どころではない。半秒近く。私が手を上げきってから、鏡のなかの私が、後を追うように手を上げる。
心臓が、いやな音を立てた。
私は、今度は素早く手を下ろした。鏡のなかの私も、遅れて手を下ろした。
何度やっても、同じだった。私が動く。少し間があって、鏡が動く。
古い鏡だから、そういう歪みがあるのかもしれない。表面が波打っていて、光の反射が変に見えるだけかもしれない。私は必死に、理屈をかき集めた。
そのとき、鏡のなかの私と、目が合った。
遅れて動くはずのそれが、目だけは、まっすぐ私を見ていた。私が動くより先に、私を見ているように。
私は思わず後ずさった。鏡のなかの私は、後ずさらなかった。遅れて後ずさるべきなのに、しばらく、その場に立ったままだった。
一秒。二秒。
それから、ようやく、鏡のなかの私が、後ずさった。
私は部屋に飛び込み、鍵をかけた。玄関のドアに背を預けて、荒い息をついた。
ドアの向こう、廊下の突き当りで、鏡は静かに、私のいない廊下を映しているはずだった。