名前を知ったのは、偶然だった。
その夜、男が座席に手袋を忘れていった。名前を書いた小さなタグが、内側に縫いつけてあった。
——冬野。
夏でも冬でもない、けれど彼にはよく似合う名前だと思った。冷たいのではなく、澄んでいる感じの。
翌週、手袋を返すと、冬野さんは少し照れたように受け取った。
「名前、見ちゃいました。冬野さん」
「ああ……はい。冬野です」
「私は、律。逢坂律」
「律さん」
名前を呼ばれただけなのに、車内の空気がやわらかくなった気がした。
その夜、冬野さんはいつもより少しだけ話した。仕事は、小さな出版社で本を作っていること。昼間はずっと文字と向き合っていること。夜になると、どうしても外の空気を吸いたくなること。
「本を作るのって、いいですね」
「どうかな。売れないものばかり作ってます。でも、誰かひとりに届けばいいと思ってやってるので」
誰かひとりに届けば。その言葉が、私の胸のどこかに引っかかった。
「律さんは、この仕事、長いんですか」
「三年です。前は、昼の会社員でした」
「どうして辞めたんですか」
私は少し迷って、答えた。
「……大切な人を、昼間に亡くしたんです。それから、昼の光が怖くなって」
言ってしまってから、しまったと思った。夜の車内は、人に本当のことを言わせすぎる。
でも冬野さんは、余計なことを何も言わなかった。ただ、「そうですか」とだけ言って、窓の外の暗い海を見ていた。
その沈黙が、どんな慰めよりもありがたかった。
灯台に着いて、白い光が回るのを二人で見た。
「私たち、似た者同士かもしれませんね」
私が言うと、冬野さんは小さくうなずいた。
「夜のほうが、息がしやすい人間なんでしょうね。お互い」