第9話: 手放すもの

藍が言う「手放すもの」――それは、藍と過ごした記憶だった。

「飼育員を交代するとき」と藍は言った。「前任者は、外の世界へ還る。でも、そのとき、新しい飼育員は、前任者との記憶を、すべて失うんです。あなたは、僕のことを、僕とここで過ごした夜のことを、何ひとつ覚えていられなくなる」
「そんな……」
「そういう決まりなんです。この水族館は、記憶を対価にして、成り立っている。僕が外へ還るかわりに、あなたは、僕を忘れる」

私は、言葉を失った。

藍を救えば、藍のことを忘れてしまう。せっかく大切に思うようになったこの人を、この夜々を、すべて。

「だから、やめましょう」と藍は言った。「あなたに、そんな思いはさせられない。僕のことは、忘れていい。あなたは、外の世界で、幸せに生きてください。それが、僕の願いです」
「藍さんの言葉は、どうなるんですか。私が飼育員にならなかったら」
「……いつか、光が尽きて、消えます。それでいいんです」

私は、いちばん奥の水槽を見た。藍の言葉は、もう、ほんとうに、かすかにしか光っていなかった。今夜が、限界かもしれなかった。

忘れてしまうのは、怖い。藍のことを覚えていたい。この気持ちを、抱えていたい。

でも――と私は思った。

私は、祖父への「ありがとう」を、飲み込んだまま失いかけた。言えなかった言葉が、どれほど深く沈んで、どれほど切なく光を失うかを、私は知っている。

藍の言葉を、同じように消させるわけにはいかない。

「藍さん」と私は言った。「あなたの言葉、なんて書いてあるんですか。返すときに、私が読み上げます」
「読まなくていいんです。すくい上げれば、それで」
「読みます。ちゃんと、声に出して。誰かが聞いてあげないと、言葉は、また光を失うんでしょう?」

藍は、こらえきれないように、目を伏せた。

「……あなたは、ずるいですね」
「藍さんに、教わったんです」

私は、決めた。忘れてしまっても、この気持ちが、確かにあったこと。それだけは、きっと、どこかに残る。祖父への言葉が、時間を越えて届いたように。

私は、飼育員のエプロンに、手を伸ばした。

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