ある夜、水族館は、いつもと様子が違った。
照明が、ちらついている。水槽の水が、心なしか濁って見えた。
「どうかしたんですか」と私が聞くと、藍は暗い顔をしていた。
「奥の水槽の言葉が、いくつか、消えました。光を失って」
「消えた……もう、返せないってことですか」
「ええ。主が、その言葉を、完全に忘れてしまった。あるいは……主が、亡くなってしまった」
藍は、いちばん奥の水槽の前に立っていた。その底で、ひときわ弱く光る、一つの言葉があった。
「これが、僕の言葉です」と藍は言った。「もう、ほとんど消えかけている。あと少しで、光が尽きる」
私は、目を凝らした。深い底で、その言葉は、今にも消えそうに、かすかに明滅していた。文字は、暗くて読み取れない。
「藍さんの言葉、私が、すくい上げることはできないんですか」
「……お客さまには、無理なんです。この水族館の言葉を返せるのは、飼育員だけ。でも、飼育員は自分の言葉を返せない。だから、僕の言葉は、永遠に、ここから出られない」
「そんな……」
藍は、静かに笑った。けれど、その笑みには、深い諦めが滲んでいた。
「いいんです。僕は、たくさんの人の言葉を返してきた。それで、じゅうぶんです」
「よくないです」と私は言った。「藍さんだって、伝えたい言葉があるのに。ずっと、待ってるのに」
藍は答えなかった。ただ、消えかけた自分の言葉を、じっと見つめていた。
そのとき、私は気づいた。この水族館に通ううち、私は藍という青年を、大切に思うようになっていた。彼の優しさを、寂しさを、放っておけなくなっていた。
藍の言葉を、返す方法は、本当にないのだろうか。飼育員が自分では返せないなら――誰か他の者が、飼育員になれば。
ふと、そんな考えが、私の頭をよぎった。危険な考えだと、わかっていた。それでも。
消えかけた光を見つめながら、私は、静かに決意を固めていった。