「ありがとう」。
その言葉を、私は祖父に言えなかった。
幼い頃、両親が共働きで、私を育ててくれたのは祖父だった。無口で、不器用で、褒め言葉のひとつも言わない人だった。反抗期の私は、そんな祖父が疎ましくて、ろくに口をきかないまま家を出た。
祖父が倒れたと聞いて病院へ駆けつけたとき、もう意識はなかった。ありがとうも、ごめんも、何ひとつ言えないまま、祖父は逝った。
その言えなかった「ありがとう」が、こうして水槽を泳いでいたのだ。
「言葉は」と藍が言った。「口に出せなかったからといって、消えるわけじゃないんです。ちゃんと、生まれて、こうして生きている。あなたの中に、確かにあった気持ちだから」
「でも、もう祖父はいません。今さら言っても、届かない」
「届きますよ」
藍は、水槽から「ありがとう」の言葉をそっとすくい上げた。彼の手のひらの上で、それは淡く光りながら、ぴちぴちと跳ねた。
「言葉を返すには、主が、もう一度その言葉を口にすることです。相手がこの世にいなくても、かまいません。言葉は、時間も距離も越えて、ちゃんと届く場所へ流れていく。この水族館の水は、すべての『もう会えない人』へ繋がっているんです」
私は、手のひらの上の小さな光を見つめた。
言えばいいのだ。ただ、一言。ずっと言えなかった、たった一言を。
口を開くのに、勇気がいった。喉の奥が詰まって、涙がこみ上げた。それでも、私は、震える声で言った。
「おじいちゃん……育ててくれて、ありがとう」
その瞬間、手のひらの光が、ふわりと宙に舞い上がった。
「ありがとう」の四文字は、青い光の尾を引いて、天井の方へ、水の中を昇るように泳いでいった。そして、天井のあたりで、星がまたたくように、ぱっと弾けて消えた。
「届きました」と藍が、優しく言った。「おじいさんのところへ」
頬を、温かいものが伝った。何十年ぶりかで、私は祖父の顔を、まっすぐ思い出せた気がした。