その水族館は、地図に載っていない。
終電を逃した夜、私は見知らぬ路地で、青い光の漏れる扉を見つけた。閉館後のはずの時刻に、なぜか灯りがついている。「真夜中水族館」と、古い木の看板に書いてあった。
扉を押すと、ひんやりとした水の匂いがした。
中は、青い光に満ちていた。壁一面の水槽。けれど、そこを泳いでいるのは、魚ではなかった。淡く光る、小さな文字の群れ。ひらがなが、漢字が、ちぎれた言葉たちが、まるで小魚の群れのように、ゆらゆらと水の中を泳いでいた。
「いらっしゃいませ。今夜のお客さまですね」
声のほうを見ると、白いシャツに深い青のエプロンをつけた、若い男の人が立っていた。二十歳そこそこに見えるけれど、どこか年齢のわからない、静かな目をしていた。
「ここは……何ですか。この、泳いでる文字は」
「言葉です」と彼は言った。「言いたかったのに、言えなかった言葉。飲み込んでしまった言葉。人が口に出せずにいた言葉は、ここへ流れ着いて、こうして泳いでいるんです」
私は水槽に近づいた。無数の言葉が、光の尾を引いて泳いでいく。「ごめん」という文字。「行かないで」という文字。「好きだった」という、ちぎれかけた文字。
「僕は、ここの飼育員です」と彼は微笑んだ。「名前は、藍といいます。お客さまが探している言葉を、水槽から見つけるのが、僕の仕事です」
「探している言葉?」
「ええ。あなたにも、あるはずです。ずっと言えなかった言葉が。心のどこかで、まだ探しているものが」
彼にそう言われて、私は、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
言えなかった言葉。飲み込んでしまった言葉。確かに、私にも、ある。
青い水の中で、無数の言葉が、静かに泳ぎ続けていた。まるで、迎えに来てくれるのを、ずっと待っていたかのように。