彼が街を発つまで、あと三日になった。
その間、晴れた夜は二回あった。私たちは屋上で会い、けれど以前のように星の話ははずまなかった。別れが近いことを、お互いに知っていたからだ。
最後になるかもしれない夜、私は思いきって切り出した。
「土星さん。私、あなたの名前を知りたいです」
彼は驚いたように私を見た。
「名前は、知らないほうがいいって、決めたのは……」
「決めたのは、あなたです。夜の人でいたいって。でも、もう夜だけじゃ足りないんです。私は、昼のあなたにも会いたい。九州にいるあなたにも、連絡したい。それじゃ、だめですか」
長い沈黙があった。頭上を、飛行機の光がゆっくり横切っていく。
「……怖いんです」と彼はやがて言った。「名前を知ったら、番号を交換したら、僕らは普通の関係になる。普通の関係は、いつか普通に終わる。仕事とか、距離とか、面倒なことで、すり減って消える。それなら、いっそ何もない夜のまま、きれいに終わりたかった」
「消えるかもしれないから、最初から何も持たない、ってことですか」
「……はい。情けないですけど」
私は、彼から預かった星座早見盤を取り出した。
「これ、覚えてますか。あなたが子どもの頃から、ずっと大事にしてきたやつ。角が折れて、色も褪せてる。でも、捨てなかった。すり減っても、手放さなかったから、今も回るんですよ」
彼は早見盤を見つめて、それから、ゆっくりと目を閉じた。
「……湊です」と彼は言った。「湊涼介。それが、僕の名前です」
涼介さん。心の中で呼んでみると、名前を知らなかった彼が、急に生身の人間になった気がした。
「私は、宮下遥です」
「遥さん」
初めて名前で呼ばれた夜、星はいつもより滲んで見えた。泣いていたからだと、気づくのに少しかかった。私たちはようやく、夜の外へ、一歩を踏み出したのだった。