私は、水族館の古い記録を調べさせてもらった。
藍が管理する、色褪せた台帳。そこには、この水族館の決まりが記されていた。
『飼育員は、自らの言葉を返すことあたわず。ただし、次なる飼育員が現れ、その者が前任者の言葉をすくい上げしとき、前任者は役目を解かれ、自らの言葉とともに、外の世界へ還る』
次なる飼育員。
つまり、誰かが藍のあとを継いで飼育員になれば、その人が、藍の言葉をすくい上げてくれる。そうすれば、藍は、自分の言葉を持って、この水族館から出られる。
「藍さん」と私は言った。「私を、次の飼育員にしてください」
藍は、驚いた顔をした。それから、激しく首を振った。
「だめです。飼育員になるということは、この水族館に縛られるということです。外の世界の時間から、切り離される。あなたには、返す人生がある。祖父に言葉を届けたように、これからも、たくさんの言葉を交わす人生が」
「でも、そうしないと、藍さんはずっとここに閉じ込められたままです」
「それでいいんです。僕は、それで」
「よくない!」
私は、思わず声を荒らげた。
「藍さんは、たくさんの人の言えなかった言葉を、返してきた。私の『ありがとう』も、あの子の『さびしい』も、あのお母さんの手紙も、全部、藍さんが救ってくれた。なのに、藍さんの言葉だけが、救われないなんて、そんなの、おかしいです」
藍は、黙って私を見つめた。青い光の中で、彼の目が、揺れていた。
「……どうして、そこまで」と彼はつぶやいた。
「わかりません」と私は答えた。「でも、藍さんの言葉を、消したくない。あなたが、ずっと待ってる言葉を、ちゃんと外の世界へ、連れ出してあげたいんです」
言いながら、私は気づいた。これは、私が飲み込んでいた、新しい言葉なのだと。藍への、まだ形にならない想い。
藍は、長い間、何も言わなかった。
やがて、彼は、ゆっくりと口を開いた。
「ひとつだけ、方法があります。でも、それには、あなたが、大きなものを手放すことになる」
その「大きなもの」が何なのか、彼は、まだ言わなかった。