その夜、彼の様子はいつもと違った。望遠鏡を空へ向けたまま、なかなか私に譲ろうとしない。
「土星さん、どうかしましたか」
「……ひとつ、報告があって」
彼はゆっくりと振り返った。
「会社で、異動が決まりました。来月から、九州の支店です」
言葉が、うまく飲み込めなかった。
「断れないんですか」
「断れない立場じゃないんですけど、断る理由もなくて。昼の僕には、この街にいなきゃいけない理由が、特にないんです」
この街にいなきゃいけない理由。それはつまり、私のことは「理由」に数えられていない、ということだろうか。胸の奥が、静かに冷えていった。
「……そうですか。おめでとうございます、でいいのかな」
「あなたは、それでいいんですか」
彼の声が、少しだけ揺れた。
「僕たちは、名前も知らない。番号も知らない。夜の屋上でしか会わない。そういう関係でいいって、決めたのは僕です。だから、僕が遠くへ行けば、それで終わる。きれいに終われる。そのつもりでした」
「つもり、でした?」
「はい。でも、いざそうなると……僕は、思ったより、この夜を手放したくないみたいなんです」
星明かりの下で、彼の顔が困ったようにゆがんでいた。
私は何も言えなかった。名前も知らない人を引き止める言葉を、私は持っていなかった。夜だけの関係だと、自分でも受け入れていたはずだった。
「返事は、いりません」と彼は言った。「ただ、あと少しだけ、晴れた夜は、ここに来てもらえますか。行ってしまう前に、もう何回か、あなたと同じ空を見たい」
うなずくことしか、できなかった。
その夜、私たちはひとつも星の名前を口にしなかった。ただ黙って、消えていく時間を見上げていた。頭上では、いつもと変わらず星が回っていた。私たちの都合など知らぬ顔で、静かに、確かに。