その頃から、私自身がおかしくなった。
朝、顔を洗おうと洗面所の鏡をのぞくと、映った私が、ほんの少し遅れて動くようになった。廊下の鏡だけではない。部屋のなかの、あらゆる鏡が。
窓ガラス。スプーンの背。エレベーターホールの金属。私が映るものすべてで、私は、遅れはじめていた。
手を上げる。少し間があって、映った私が手を上げる。歩く。少し遅れて、映った私が歩く。
メモのとおりだった。私が、あれの遅れた影になっていく。
職場でも、様子がおかしいと言われた。動作が、いちいち一拍遅れる。呼ばれて返事をするのも、立ち上がるのも、何もかもが、ワンテンポ遅い。まるで、自分の体が、自分のものでなくなっていくようだった。
本物のほうは、鏡のなかにいる。私は、その反射にすぎない。だんだん、そう思えてきた。夜になると、廊下の鏡から、こつ、こつ、と足音が聞こえた。あれが、私の代わりに、廊下を歩いているのだ。
ある夜、私は決心して、老女の部屋のインターホンを押した。
返事はなかった。何度押しても、出なかった。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。おそるおそる開けると、部屋はもぬけの殻だった。家具はある。生活の跡もある。ただ、人だけが、いなかった。
玄関の三和土に、老女のスリッパが、きちんと揃えて置かれていた。まるで、今、そこから出ていったばかりのように。
私は、背筋が凍った。前の住人も、こうだったのだ。荷物を残して、内側から鍵をかけて、消えた。
老女も、あの鏡に。
夜、鏡を見ないこと。目を合わせないこと。そう言っていた老女が、ついに、あれに追い越されたのだ。
廊下に出ると、突き当りの鏡が、じっと私を映していた。
そのなかに——私と、老女と、見知らぬ女が、三人、並んで立って、こちらを見ていた。