ある夜、僕は、服部のいつも配っている「手裏剣クッキー」の正体を、知ることになった。
その夜、服部は現れなかった。
毎晩、点検口から来ていたのに。心配になって、僕は、初めて、玄関から服部の部屋を訪ねた。
インターホンを押すと、めずらしく、玄関のドアが、ふつうに開いた。
なかは、意外なほど、生活感のある部屋だった。刀もない。手裏剣もない。あるのは、大量の、お菓子作りの道具だった。オーブン、型、粉、バター。
「服部さん?」
奥から、エプロン姿の服部が、顔を出した。覆面もしていない、ただの、疲れた男の顔で。
「……見られてしもうたな」
「これ、全部、あんたが?」
「うむ。拙者、昼間は、菓子職人でな」
「菓子職人!?」
服部は、観念したように、話しはじめた。
彼は、もともと、有名な洋菓子店の職人だった。腕は良かった。でも、働きすぎて、体を壊し、一番大事にしていた恋人にも、逃げられた。休職して、この町に越してきたのだという。
「忍者は?」
「……子どもの頃の、憧れでな。菓子作りしか、能のない拙者が、唯一、なりたかったもの。この町で、ひとりで療養しておるうちに、なんだか、忍者ごっこでもせねば、心が、もたなくなってしもうた」
手裏剣クッキーは、彼が、リハビリがてら焼いた、本気の菓子だった。近所に配っていたのは、人と関わる、きっかけが、欲しかったから。
「そなたを見て、放っておけなんだ。働きすぎて、生活を壊しておった、昔の拙者と、そっくりでな。せめて、そなただけは、拙者のようになる前に、と」
僕は、言葉を失った。
あの、ふざけた任務の数々。ラジオ体操も、冷蔵庫掃除も、定時退社も。全部、この人なりの、不器用な、優しさだったのだ。
「なんだよ、それ……。ぜんぶ、俺のためだったのかよ」
「照れるな。任務ゆえ」
服部は、覆面を、ひょいとかぶった。また、忍者に戻った。
「さあ、佐野殿。本日の任務。焼きたてのクッキーを、味わうべし」
差し出された手裏剣クッキーは、いつもより、あたたかかった。
「……うまい」
僕がそう言うと、覆面の下で、服部が、少しだけ、笑ったのがわかった。