その夜、店には七海のほかに客はいなかった。
珍しく冬野が缶ビールを二本出して、一本を七海の前に置いた。
「たまには、飲むか」
驚きながら、七海はプルタブを開けた。ふたりで乾杯するでもなく、ただ静かに飲んだ。レコードは、いつもの知らない曲。
「この店、五年前に始めたって言いましたよね」七海はそっと切り出した。「その前の話、聞いてもいいですか」
冬野はしばらく黙って、ビールをひとくち飲んだ。
「昔、結婚してた」
七海の心臓が、小さく跳ねた。
「音楽が好きな人だった。レコードを集めるのも、その人の趣味でな。俺は最初、興味なかった。でも、その人が選ぶ曲は、いつも俺の気持ちを言い当てるみたいで……いつのまにか、俺のほうが夢中になってた」
「その方は、今は」
「病気で、亡くなった。六年前だ」
店内の空気が、ふっと重くなった。
「会社を辞めて、その人が残したレコードで、この店を始めた。全部、あの人のコレクションだ」冬野は棚を見渡した。「捨てられなかった。かといって、家に置いて眺めてるのも、つらかった」
七海は、これまで聴いてきた無数の曲を思った。あれはすべて、亡くなった奥さんが選んだ音楽だったのだ。
「一日一曲、その日のために選ぶ」冬野は言った。「あの人がやってたことだ。俺は真似してるだけだ」
七海は、胸の奥がしんと冷えるのを感じた。冬野が選んでくれた曲は、七海のためではなかったのかもしれない。ずっと、いない誰かの影を、なぞっていただけなのかもしれない。
「……ごめん」冬野がふいに言った。「こんな話、するつもりじゃなかった」
「いえ」七海は首を振った。「話してくれて、うれしいです」
嘘だった。本当は、少しだけ苦しかった。でも、その苦しさの正体を、七海はまだ言葉にできなかった。