ある夜、水族館に、小さな女の子が来た。
七つか八つくらい。一人きりで、青ざめた顔をして、水槽をじっと見上げていた。
「この子は」と藍が小声で言った。「言葉が、ぜんぶ深く沈みかけている。まだ幼いのに、たくさんの言葉を飲み込んできた子です」
女の子は、笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、感情を失くしたような目で、泳ぐ言葉たちを見ていた。
藍が、そっと少女のそばにしゃがんだ。
「何か、探しているものはある?」
少女は、首を横に振った。
「べつに。わたし、言いたいことなんて、ないもん」
その声が、あまりにも平らで、私は胸が痛くなった。
藍は、いちばん奥の暗い水槽へ、少女を連れていった。そして、深い底を指さした。そこに、いくつもの言葉が、力なく沈んでいた。「さびしい」「たすけて」「ここにいたい」「みないで」――幼い、けれど切実な言葉たちが、光を失いかけていた。
「これ、ぜんぶ、きみの言葉だよ」と藍は言った。「言いたくないって、言い聞かせてきた言葉。でも、ほんとうは、ずっと言いたかったんじゃないかな」
少女の目が、揺れた。
「言っても、どうせ、だれも聞いてくれない」
「僕が聞くよ」と藍は言った。「ここにいる、みんなが聞く。言葉は、聞いてくれる人がいれば、また光る」
少女の唇が、震えた。長い沈黙のあと、彼女は、ようやく、絞り出すように言った。
「……さびしい」
その瞬間、暗い水槽の底で、ひとつの言葉が、ぽっと光を取り戻した。
「さびしいよ。ずっと、さびしかった」
言葉が、次々と光り始めた。少女の目から、大粒の涙がこぼれた。飲み込んできたものが、ようやく外へ流れ出した。
光を取り戻した言葉たちが、水の中を昇っていく。少女は、声をあげて泣いた。ずっと泣けなかったぶんを、取り返すように。
藍は、その小さな背中を、そっとさすっていた。
「これでいい」と彼はつぶやいた。「飲み込まなくて、いいんだよ」