その夜から、真央は眠れなくなった。
午前三時が近づくたび、心臓が締めつけられる。番号が終われば、次は名前。老婆の言葉が、頭から離れなかった。
数日後、真央は再び四〇一を訪ねた。老婆に、もっと詳しく聞きたかった。
しかし、いくらインターホンを押しても、返事はなかった。
不安になって管理会社に電話をすると、担当者は妙に言葉を濁した。
「四〇一の方ですか。あの……先日、退去されました」
「退去? いつですか」
「昨日の朝、部屋を確認したら、空になっていて」
真央の手から、スマホが滑り落ちそうになった。
昨日の朝。あの老婆と話したのは、一昨日だ。あの人は、名前を呼ばれたのだろうか。
「あの、荷物とかは」
「それが」担当者は困ったように言った。「何もなかったんです。家具も、生活用品も。もう何年も、誰も住んでいなかったみたいに」
通話を切ったあと、真央はしばらく動けなかった。
老婆は、たしかに存在していた。腕をつかまれた感触も、しわがれた声も、はっきり覚えている。それが、まるで最初からいなかったみたいに――。
その夜、真央は覚悟して、午前三時を待った。
二時五十八分。足音。三時ちょうど。声。
「……よん、まる、いち……」
真央は、はっとした。四〇一。老婆の部屋だ。
その番号を読み上げたあと、声は続けた。
「……よん、まる、いち、うえだ、とめ……たいきょ、ずみ」
退去済み。
声は、老婆の名前を読み上げ、そして「退去済み」と付け加えたのだ。
名簿だ。あの声は、このマンションの住人名簿を、毎晩、読み上げている。そして、名前を呼ばれた者から、名簿の上で「退去済み」に書き換えられていく。
真央は、震える手でメモを取った。今のうちに、記録しておかなければ。
声は、二十室すべてを読み上げていった。真央の部屋、四〇二はまだ「番号」だけだった。名前は、呼ばれなかった。
まだ。
まだ、大丈夫。
けれど、それが、いつまで続くのかはわからなかった。