彼の名前を知ったのは、ささいなことがきっかけだった。
その夜、私が洗剤を切らしていた。自販機の粉洗剤も売り切れで、途方に暮れていると、彼が自分のボトルを差し出した。「使えば」
遠慮する私に、彼は袋いっぱいのシャツを見せた。「これだけ洗うんだ。一人ぶん増えたって減りゃしない」
ありがたく借りて、私は初めて彼の隣に並んで洗濯機を回した。液体洗剤は、やっぱり優しい花の匂いがした。
「そのシャツ、全部お仕事の?」
「そう。白いのばっかりでしょ」
うなずくと、彼は少し迷ってから言った。「パン屋。夜中に仕込んで、朝いちばんに焼く。だから生活が、たぶんあなたと似てる」
パン屋。バターの匂いも、粉のついたニットも、丁寧にたたむ指も、その一言で全部つながった。腑に落ちる感覚が気持ちよくて、私は思わず笑った。
「私は校正者です。本の間違いを直す仕事。だから、夜が長くて」
「間違いを直す人」彼はゆっくり反芻した。「いい仕事だ。世の中、直せないことばっかりだから」
その言い方に、ふと影のようなものを感じた。でも私は聞かなかった。彼だって、私の何も聞かない。それが二人のあいだの、暗黙の礼儀みたいだった。
乾燥が終わり、私が洗剤のボトルを返すと、彼は名刺サイズのカードを一枚くれた。小さなパン屋の名前と住所。裏に手書きで「透(とおる)」とあった。
「透さん」
呼ぶと、彼は少し照れたように目をそらした。「本名だと、なんか改まるな」
「私は澪です。水に、名前の名」
「澪」彼が口の中で転がす。「水路のことだよ、それ。船が通る、深いところ」
知らなかった。自分の名前の意味を、真夜中のコインランドリーで、パン職人に教わるなんて。窓の外を、始発を待つ人が一人、通りすぎていった。