青いエプロンを身につけると、水族館のすべての水槽が、私に応えるように、いっせいに光った。
私は、新しい飼育員になった。
「これで」と藍が言った。「あなたは、僕の言葉をすくい上げられる。奥の水槽です」
私は、いちばん深い水槽の前に立った。底の底で、消えかけた一つの言葉が、最後の力で明滅していた。
手を、水の中へ差し入れる。冷たい水が、腕を伝う。深く、深く、手を伸ばす。指先が、その小さな光に、触れた。
すくい上げると、それは、私の手のひらの上で、ふるえながら光を取り戻した。文字が、はっきりと読めた。
「わすれないで」
藍が、ずっと言えなかった言葉。大切な人に伝えたかった、たったひとつの願い。
忘れないで。
皮肉だと思った。私は今から、藍のことを、すべて忘れる。その私が、彼の「わすれないで」を、外の世界へ連れて還る。
「藍さん」と私は言った。涙が、止まらなかった。「読みます。あなたの、言葉」
藍は、静かに微笑んでいた。もう、寂しそうではなかった。
私は、手のひらの光に向かって、声に出した。
「わすれないで」
その瞬間、藍の言葉が、私の手のひらから、ふわりと舞い上がった。青い光の尾を引いて、天井へ、水の中を昇っていく。そして、藍の体も、その光と溶け合うように、淡くほどけ始めた。
「ありがとう」と藍の声がした。「あなたのことは、僕が、外の世界で、ずっと覚えています。あなたが僕を忘れても、僕が、覚えているから」
光が、弾けた。
藍の姿は、消えていた。
――そして、私は、青いエプロンをつけて、たくさんの言葉が泳ぐ水槽の前に、一人で立っていた。
なぜ、涙が流れているのか、わからなかった。誰かを、見送った気がする。とても大切な、誰かを。でも、その顔も、名前も、もう思い出せない。
胸に、温かい何かだけが、残っていた。
水槽を、無数の言葉が、光りながら泳いでいく。私は、飼育員だ。誰かの言えなかった言葉を、返すのが、私の仕事。
いつか、私の言葉を、誰かが見つけてくれる日まで。
零時の扉が、また、静かに開いた。今夜のお客さまだ。
「いらっしゃいませ」と、私は微笑んだ。どこか懐かしい響きの、その言葉で。