第8話 ツキの話
「ツキは、人間なの?」とある夜リョウは聞いた。
ツキは驚かなかった。「どうして?」と、いつもと変わらない静かな声で返した。
「毎晩ここにいて、夢を見なくて、出ていかない。普通の人間じゃない気がして」
リョウは何度も夜の駅を訪れるなかで、ツキだけが常にここにいることに気づいていた。他の利用客は来ては去り、夢へ向かい、時に戻ってきた。だが、ツキはいつもベンチに座り、変わらぬ表情で駅の空気に溶け込んでいた。
ツキはゆっくりとベンチの端を見た。その視線は、かつて誰かが座ったであろう場所へ向かっていた。
「昔は人間だったかもしれない。でも今は……ここの一部みたいなものだと思ってる」
「昔は、って?」
リョウは身を乗り出した。ツキが過去について口にすることは珍しかった。駅に来た当初、ツキは何もかも謎めいていて、リョウはそれを当たり前だと受け入れていた。しかし何度も顔を合わせるうち、何か知りたいという欲求が生まれていた。
「夢に入りすぎて、戻れなくなった。でも夢の中でも眠り続けることはなくて……気づいたら、ここにいた」
その言葉は淡々としていたが、どこか遠い時間を見つめているようだった。
リョウはルールを思い出した。ツキから最初に聞いた駅の約束。夢に長く居すぎると、戻れなくなる。ずっと夢の中にいると、現実との距離が取り返しのつかないほど広がり、やがて帰る道を忘れるのだ。
「怖くなかった?」
リョウの声は少し震えていた。その質問は、ツキへの同情ではなく、自分自身への問いでもあった。自分も長く夢に留まれば、ツキのようになるのではないか。そんな不安が胸の奥で蠢いていた。
「最初は怖かった」ツキは答えた。「本当に、怖かった。戻れないんだって気づいた時は、ここで泣いたような気がする。でも誰かが来るたびに、存在できてる気がした。話しかけてくれたり、その人たちの話を聞いたり……そうしてるうちに、怖さは薄れていった」
ツキの言葉には、長い年月が詰まっているようだった。
リョウは何も言えなかった。言うべき言葉を知らなかった。慰めになるようなことは思い浮かばず、むしろ、ツキがこの駅に留まり続けることを受け入れている現実が、どこか美しくも悲しくも感じられた。
「私の話は気にしないで」とツキは言った。その顔を見上げると、いつもの柔らかな表情が戻っていた。「あなたは戻れてるから、大丈夫。毎晩戻ってくるでしょう?」
「そりゃあ……」リョウは照れたように答えた。
「だから大丈夫。あなたは迷わない人だ。だから私は、あなたが来てくれるのが嬉しいんだ」
ツキは再びベンチに視線を戻した。リョウもそこに目をやった。暗い駅の空気のなかで、そのベンチはいつもと変わらず静かに存在していた。しかし今は、それが何か意味を持つ場所に思えた。
リョウは立ち上がり、夢への階段へ向かった。後ろでツキの声がした。
「また明日」
「ああ」リョウは返事をした。「また明日」
──(第9話へつづく)