第10話(最終話) 合理的な理由
桐島さんがバイトを辞めることになった。就職が決まったからだった。
告げられたのは、いつもの営業終了後。桐島さんが事務所の机の前に立ち、俺を呼んだ。その姿勢からして何か重要な話なんだとわかった。いつもの無表情はそのままだが、何かが違う。俺はそっと彼女の前に立った。
「来月末で辞める」
三ヶ月一緒に働いてきた。最初は本当に変な先輩だと思った。俺のすべての行動を記録して、気温と客数と俺の機嫌を関連付けたり、提供する商品の組み合わせまで最適化したり。でも今は違った。桐島さんのおかげで、このバイトが楽しくなっていた。
「承知しました」と俺は言った。大人っぽく聞こえるかと思ったが、声が少し震えていた。
最後のシフトはお客さんが多い夜だった。桐島さんはいつも通り、効率的に動いていた。その横で俺も働いた。何か最後のレッスンを受けているような気がした。
営業終了後、片付けをしながら桐島さんは俺に一冊の手帳を渡した。表紙には「ルール帳」と手書きされていた。
「引き継ぎ」と桐島さんは言った。「全部書いてあるから、次の新人に渡して」
俺は手帳を受け取った。思ったより重かった。分厚い。
「桐島さんのルール、俺が使っていいんですか」
「俺のじゃない。このバイト先のルール」
ページをめくると、営業時間別の最適な商品配置図があった。天気ごとの客層の変化。曜日ごとのレジの混雑予測。そして最後のページ近く。
俺の観察記録があった。
「ハルトが�nicholas歌を歌っていたら今日は調子がいい」と丁寧な字で追記されていた。その下には「集中力が高まると自然と出る」「ミスが減る傾向」と分析が続いていた。
「俺の分も書いてくれたんですか」
「観察記録だから」と桐島さんは言った。相変わらず淡々とした口調だったが、視線は手帳に向けられていた。「合理的な理由がある」
「何の?」と俺は聞いた。
桐島さんは少し長く沈黙した。俺は彼女が何か考えているのだとわかった。いや、正確には迷っているのだ。言葉を選んでいる。桐島さんはいつも最適な言葉を探す。
「……次の人が、ここで働くのが楽しくなるための記録だから」
それが、桐島さんの言い方の告白なんだと、俺は思った。
この人は変な先輩だ。でも、その変さは誰かを思う気持ちから来ているんだ。効率を追求しているように見えて、本当には人を大事にしていた。ルールだと言い張りながら、実は想いを伝えていた。
「ありがとうございます」と俺は言った。
「これからも、ここで働くんでしょう」桐島さんは顔を上げた。「新人にもこのルール、教えてあげて。わかりやすく」
「わかりました」
帰路、駅へ向かう道で、鼻歌が出た。
鼻歌が出るとしたら、今日みたいな日だ。
桐島さんのいないこれからの日々で、俺はどんな新人を迎えることになるのだろう。でもその新人も、このルール帳を持てば大丈夫。桐島さんの想いが詰まったこの手帳があれば。
振り返ると、店舗の看板が遠ざかっていった。
──(完)