第5話 田中に彼女
「彼女ができた」と田中が朝食中に言った。
僕はコーヒーを吹き出しそうになった。「マジで?」
「マジで」
田中に彼女。その事実を5秒かけて飲み込んだ。田中は大学の同級生で、一年間一緒に暮らしている。朝食時に規約について熱く語る真面目な男だ。そんな奴に恋人ができたということは、つまり——
「おめでとう……で、来客条項を追加したいってこと?」
田中が目を細めた。「なんで分かった」
「規約の人間の考えることなんて、だいたい分かるようになってきた」
一年近く同じ屋根の下で、こいつが次々と条項を追加するのを見てきた。トーストの焼き加減について、洗濯物の干し方について、シャワーの使用時間について。常識的な範囲の中で、より良い共同生活を目指すための細かなルールたち。最初は煩わしいと思っていたが、今では一種の儀式めいた愛おしささえ感じている。
田中はノートを取り出した。朝日が当たるテーブルの上に置かれたそれは、すでにぼろぼろだった。「第25条。来客は前日までに通知すること。第26条、来客中はリビング使用を配慮する。第27条——」
「待って、お前何条まで作る気なの」
「必要な分だけ」
「必要の定義は?」
「誠意的判断による」
またそれか、と思いながらも、田中がどこか嬉しそうなのは分かった。目尻が微かに緩んでいる。朝日の中で、彼の横顔は普段より柔らかく見えた。
僕はパンに手を伸ばしながら、聞いた。「彼女に規約の話、した?」
「した」
「引かれなかった?」
田中は少し間を置いた。その沈黙は考えているのではなく、思い出しているのだと分かった。「『おもしろい人だね』と言われた」
「……それは誉め言葉なの?」
「文脈的には誉め言葉だった」
窓の外では朝の通勤ラッシュが始まっていた。車の音、人の声が混ざった音声。いつもと変わらない日常。けれど隣に座っている男は確実に何かが変わっている。彼女ができたということは、この共有スペースに新しい誰かが入ってくるということだ。
「ちなみに」と僕は続けた。「その彼女、いつ来るの?」
「今週の金曜日を考えてる」
「もう決まってるんですか」
「決めた」
もう既に日程まで組み込まれているのか。彼女はこの親友のペースに合わせることになるのだろう。それとも、彼女もまた何か物事を秩序立てて考える人間なのか。「おもしろい人だね」という評価が引っかかった。
僕は新しいルールの追加に特に反対しなかった。一年のうちに何十条も追加されているのだ。もう一条や二条が増えたところで変わることはない。ただ、リビングを配慮するというのは、つまり僕たちの生活空間を意識的に狭めるということだ。
「田中」
「何」
「彼女、大切にしろよ」
田中はノートを閉じて、僕の顔を見た。「何か意味深だな」
「別に。ただ、こういう機会は珍しいんだと思って」
田中は朝食を続けた。パンを食べ、コーヒーを飲む。何ともない日常的な動作。けれど彼の中では何か音が立てられない革命が起きているのだろう。新しい規約は、彼の新しい人生の章立てだ。
「条項の追加については異議なし」と僕は言った。「だから、金曜日までに細かく調整しておいてくれ。失敗すんなよ」
「失敗する要素がない」
「規約だけで女性は満足しないぞ」
田中は一瞬、考えたような顔になった。その迷いの表情が実に人間らしくて、少し可笑しかった。
── (第6話へつづく)