俺はもう限界だった。辞めよう。そう決めて、翌朝、一階の弁当屋に立ち寄った。この店の主人なら、何か知っているかもしれない。
老いた店主は、俺の顔を見るなり、すべてを察したような表情をした。
「あんた、上を見ちまったね」
俺は頷いた。ドアのこと、子どものこと、教室のこと。全部話した。店主は湯呑みを握りしめて、静かに聞いていた。
「あのビルはな」店主は低い声で言った。「昔、火事があったんだよ。二十年以上前だ。四階に、子ども向けの塾があってな。夜間の授業中に、火が出た」
背筋が冷たくなった。
「逃げ遅れた子どもが、大勢いた。階段に殺到して、ドアの前で……。以来だよ。あのビルで、変なことが起きるようになったのは」
「じゃあ、あの子どもたちは」
「逃げようとして、逃げられなかった子らだ。今も、出口を探してる。ドアを、数えてるんだ。逃げられるドアを」
ドアを数えると増える。子どもたちが、必死に出口を増やそうとしているからか。
「見回りは、そいつらを鎮めるためのもんだ。定期的に大人が来て『大丈夫だよ』って顔を見せてやる。それで、あの子らは少しだけ落ち着く。だから、二時間おきなんだ」
「でも、黒板に『あと何日』って」
店主の顔が曇った。
「取り壊しだよ。あと少しで、あのビルは壊される。子どもらは、それを知ってる。壊される前に、逃げ出したいんだ。この世に」
湯呑みが、かたかたと震えていた。店主の手ではなく、湯呑み自体が。
「佐倉さん。あんた、辞めるなら今のうちだ。でもな、一つだけ言っとく。取り壊しの日まで、見回りを続けた警備員はいない。みんな途中で逃げ出す。だから、あの子らは、まだ一度も鎮まったことがないんだよ」
俺は店を出た。振り返ると、閉店したはずの弁当屋の中に、いつのまにか小さな影がいくつも並んでいた。